91 目覚め
オレの言葉に、飛車丸が驚いてこちらを見る。
間違いではないとわかるように、オレはもう一度同じことを口にした。
「本気の武田信玄に、お前が勝たねばならん」
「策は?」
「すでに使い切った。北条への圧力も、武田への手も。そして、オレはお前が勝った後の為に駿河を出る」
「それで勝てと?あの甲斐の虎に」
「出来なければそこまでだ」
飛車丸の視線をまっすぐ見返す。飛車丸はオレの視線から、その意味を理解したのだろう。
オレが手を出せるのはここまでだと。
ここを進めば、もう後戻りは出来ない。ここを進むためには、お前は今までのお前を止めなければならない。
『怪物』よ。
はっきり言おう。今川氏真は天才だ。文武両道。剣の腕に短歌に蹴鞠。
史実において、戦国大名として没落しながら、家名を残して延命しているという手腕。
時の権力者に服従する。父親の仇である織田信長に、その配下の豊臣秀吉に、自分に逆らった徳川家康に跪き、危険視されずに生き延びるという行動。
時世を読めず滅びた多くの戦国大名が出来なかったことを、己の才覚だけで達成していた。
オレが考える戦国大名の根源、「生き残る事」をものの見事に達成させた怪物だ。
皆が生き延びる為になりふり構わず力を求める中で、力を捨てるという選択肢を選べる理外の怪物。生き残るという事を至上の命題とする戦国大名の究極形。
三国志の劉備が、魏の曹操の下で名家として劉家を存続させているようなものだ。桃園の誓い達成である。
だが、今やそれでは足りない。家名を残す程度の難易度ではあり得ない。
関羽も張飛も孔明もなく、劉備が独力で蜀を確立するぐらいを求められる。
そうでなければ、駿河は武田家にすりつぶされるだろう。ここで、英雄武田信玄を打ち倒す必要があるのだ。
オレを見ていた飛車丸は、視線を外し背中を見せる。しばらく考えるように沈黙した後に聞いてきた。
「作麼生。易き道を歩むは悪か」
問答か。師匠が好きだったな。
表情が見えない飛車丸の背中に答える。
「説破。道の行き来に善悪あらず。重きを背負い進むが難き道。荷を捨て進むが易き道だ」
「……」
オレの答えに、背を向けたまま飛車丸は顔を上げた。オレの視線もそこに向く。その壁には清和源氏の名門今川家の家紋、『足利二つ引き』が掲げてある。
「そうか。俺は選んでいたのか」
「そうだ飛車丸。だから、オレは来た」
「そうか。そうかぁ……」
肩を落とし、絞り出すように飛車丸がつぶやいた。
オレは最初に聞いた「やりたいことは何か」と。そしてお前はそれに答えてしまった。だから、お前は進まねばならない。選んだのだから。
再び沈黙が落ちる。それを破ったのは、やはり飛車丸だった。
「承豊」
「…」
「もう、オレを『飛車丸』と呼ぶな」
家紋を見上げたまま、今川家当主は言った。
「どうやらオレは、“成らねば”ならぬようだ」
背を向けたまま、今川家当主の雰囲気が変わる。
どうやら、オレは怪物を起こす事ができたらしい。
後は、その怪物が英雄を越えられるかどうかだ。
オレは、そのまま背を向け部屋を出る。
後はやるべき事をやるだけだ。本人が望もうと望まなかろうと。時は動く。英雄も怪物も関係なく。時は戻りはしない。
だから。
だからだ、怪物よ。
部屋から出る前に、その背中に顔を向けて口を開く。
「なら、そう呼ばせて見せろ」
最初に言ったろ。
背負う荷を支える『手伝いくらいはしてやる』よ。




