89 休戦協定
宍原の戦いは、今川軍の勝利で終わった。駿河に侵攻してきた武田軍に得るものはなく、殿として残った小山田隊は壊滅し、小山田信茂は降伏して捕虜の身となった。
武田軍に勝利したといっても、今川家も喜んでばかりはいられない。
遠江の徳川家に関しては完全に後手に回っていた。
武田家の駿河侵攻に呼応した徳川軍の攻勢は勢いを増し、遠江の北西部を抑えられてしまった。そのため、岡部元信率いる軍勢は秋葉城攻略をあきらめ犬居城まで退く事になった。その結果、天竜川を境に曳馬城をけん制していた朝比奈軍も、挟撃の危険により川の対岸から陣を引かざるを得なくなった。
遠江の防衛という意味では完全な敗北であり、遠江西部は徳川家に支配され、中央部にまで侵攻を許してしまった。
「お疲れさん」
今川家の戦後処理が終わるまですることがなかったので、駿府の居候先である庵原館でゴロゴロしていたが、一段落したようだ。飛車丸の呼び出しで、いつものように今川館の私室に向かう。
私室ではいくつもの手紙を読んでいる飛車丸がいたが、気にせず上から書かれている内容を覗き込む。
「詰問状か」
「ああ、今回の件で武田に内通した豪族達に、弁解の余地だけはくれてやる」
「言えば手伝ったのに」
「お前に任せると、豪族達の首がすげ代わるだろ」
責任者は責任を取るのがお仕事。だから偉そうにできるのだ。事実、遠江の騒乱の際はそうやって、豪族達に責任を取らせている。その結果、遠江の豪族達が弱体化し、今回の徳川家による遠江侵攻の今川家の劣勢に繋がったともいえる。
今川氏真としては、駿河がそうなる事は許容できないという事らしい。
「庵原親子はどうした?」
オレの居候先の主人である。一人でさっさと帰ったオレとは違い、今回の対武田の大将でもあった庵原一家は、いまだに帰ってきていない。たまに館に残っている家人から状況を聞かれるが、知らないものは答えようがない。
「まだ武田軍とにらみ合っているよ。今のうちに、内房に支城を建てさせている。城が出来れば武田も退くだろう」
宍原平原で退いた武田軍だったが、そのまま一目散に甲斐に逃げるかと思えば、国境付近に留まり庵原忠胤率いる今川軍とにらみ合いを続けている。
鵜殿氏長の伏兵が1000程度しかおらず、たばかられた事に気がついたからだろうか。とはいえ、傭兵を入れて15000を数える今川軍に、8000程度まで数を減らした武田軍ではやはりどうしようもない。
おそらくは、今川家の情報収集に努めているのだろう。
故に、オレは今回の戦の手柄を鵜殿兄弟に丸投げして、さっさと駿府に帰ってきたのである。あれから武田が状況を調べたところで、伏兵の正体は鵜殿兄弟という事で終わる。そこからオレをたどるには時間がかかるだろう。
「で、何の用だ?」
「わかっているだろう、豊。小山田信茂の扱い。武田をどうするかだ」
「人質交換の条件で、武田に休戦協定を結ばせる」
「意味があるのか?」
「あるさ。大義名分を得るためにな」
「期間は?」
「半年以上ならそれでいい。1年でも5年でも変わりはしない」
「わかった。明日にでも使者をたてよう。……そうか、それを理由に武田は退くか」
武田家の駿河侵攻は失敗した。しかし、失敗したから中止しますでは済まないのが大名の面子だ。意地でも何かの成果を出さなければならない彼等には、退くにしてもきっかけが必要となる。
「徳川は?朝比奈を退かせたのはお前の指示だろ」
飛車丸の言葉に、薄く笑みを浮かべる。この件に関して、オレは飛車丸に連絡していなかった。確かに、岡部軍が押し込まれた事で不利な立地ではあったが、朝比奈と遠江の豪族たちの力なら、今川軍と合流するまで持たせる事は不可能ではなかった。
しかしオレにとって、目に見える成果というのは必要だった。
「ああ、これで遠江の準備も完了した。あとは、武田の対処が終わってからだ。徳川もここまでよ」
実際問題、徳川がこれ以上の侵攻を続けるのは難しい。頼みの武田が敗れたのだ。これで今川家と武田家の休戦協定が結ばれれば、今川家の矛先は徳川家に向けられる。
厳しい戦いになる事は向こうも理解しているだろう。
新しく切り取ったがゆえに、そこを奪われないように守る必要が出てくる。
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「愚か者めが…」
その知らせを聞いて、小田原城の一室で一人の老人が悪態をついた。
北条幻庵。
関東の大名北条家を黎明期から支える、老獪な軍師である。
その手にあるのは、今回の今川家と武田家の戦いの推移だ。予想に反して、今川家は武田軍の侵攻を撥ね返した。確かに多少は北条家も助力したが、あの武田信玄を退かせる力があったかと見なおしたところにこれだ。
二年の休戦協定を結び、手打ちとなったのだ。
甘い判断と言える。
あの武田信玄を相手に、意表をついた程度で矛を収めてしまった。
今なら、武田家を弱体化させることが可能だった。我ら北条家と今川家の関係を利用し両家で連携して甲斐を攻めれば、武田信玄であろうとも後手に回る。
武田家の本拠地である甲斐を攻めてこそ、武田信玄を抑え込む事が出来るのだ。それをしなければ、あの血に飢えた虎はまた出てくるだろう。
しかし、今川が休戦協定を結んだことで北条家もまた甲斐を攻める機会を失った。ここで北条家だけで甲斐を攻めたところで、信玄が出てくるだけだ。不利とは言わないが、楽な戦いではない。今川家との連携だけが、勇猛果敢な武田家に対して優位となる一手なのだ。
今川家としては、遠江を侵略する徳川家に対処するためなのだろう。自分の領土に攻め込まれて危機感を覚えているのはわかるが、そんなものはいつでも取り返せる。
武田と徳川、どちらがより大きな脅威になるかわかっていない。
弱者を倒す。それこそが兵法の基本。だからこそ、強者を弱体化させる事が軍略の真髄なのだ。
すでに武田は手を打っている。休戦協定により北条家が甲斐に攻め込む機を失ったことを察し、北条家との関係を修復しようと動き始めている。
今回の敗戦の遠因でもある、北条家による二面作戦を封じる動きだ。
それに対して、今川家は徳川軍を遠江から退けたところで、徳川家との敵対関係は変わらない。快進撃を続ける徳川元康を倒し三河を取った所で、その先にいる尾張織田家と戦う事になるだけだ。
今回、駿河侵攻にあたり、武田家はその両家とも友好関係を結んでいる。
今川家の窮状に変わりはなく、武田信玄は駿河を諦めてはいない。
「誤ったな今川氏真。これは致命傷になりかねん……」
状況によっては、武田に与する事も考えねばならないだろう。
滅びるかもしれない今川家と違い、北条家はこれからも生き続けねばならないのだから。




