88 名将の条件
オレが今川家御用商人の友野屋に用意させたのが、この傭兵部隊だ。金に飽かせて買い集めた、想定外の戦力。その代金は、5年にわたり友野屋に貸し出していた交易船すべてを譲渡。さらに、関東征伐で友野屋に与えた北条家の利権の代金代わりという形で賄った。まさに、全部一斉大放出だ。
多分、友野屋の金蔵はかなり寒くなったことだろう。
南北に現れた伏兵によって、武田軍の優位は完全に崩れた。
こちらに向かっていた山県隊も足を止めている。それはそうだ。宍原平原の南に伏せた鵜殿氏長率いる伏兵の規模は4000から5000。
つまりは、武田軍の総勢1万に対して、今川軍2万でさらに包囲した状態だ。
予備としての後詰めはすでになく、武田本陣より多い伏兵に対処できる遊兵はもういない。
本陣の横腹を突く事も、前線で包囲している軍勢の後ろをつく事も可能な状態だ。
ゆっくりと動き出す、新たに現れた伏兵部隊。
「武田は退きますか?」
伏兵が新たに現れたことによって、士気の下がった小山田隊が押され始める。
それを押しつぶすべく指揮をしながら、鵜殿氏次がオレに聞いてくる。
「退くさ。武田信玄は敗北を知る名将だ。勝利に固執したりはしない」
今川家の兵力を分断させる為に、徳川と同盟を結び、内通者を作って攻めてきた武田信玄は、今川家を正しく分析している。
駿河今川家は甲斐武田家と長年同盟関係にあり、過去には武田家と長尾家(現上杉家)の川中島の戦いの仲裁をしたほどだ。その際には両軍よりも多い軍勢を見せつけて示威行為をし、桶狭間で討たれた時には上洛の為に四万もの大軍勢を用意した。
そんな今川家を知る武田家は、絶対に甘い判断をしない。
だからこそ、武田信玄は退く。
武田信玄には、この余剰戦力を用意できた理由が分からないからだ。
兵を雇う為の代金はもとより、兵を集める手段ですら海運に関連するものですべて賄った。兵らの移送手段ですら、友野屋に売却した今川家の交易船によるものだ。
駿河遠江から得られる兵数。国力から大名が用意できる戦力に関して、歴戦の武将である武田信玄は精確に計算するだろう。
だが、海を持たない甲斐武田家は。それゆえに海を求める武田信玄は。海運によって得られる力を計り知ることが出来ない。海を持たない甲斐の大大名武田信玄には、海洋交易の知識も経験も持ち得ないのだ。
故に武田信玄は、この伏兵の存在理由を知りえない。
「名将の条件とは、致命的な間違いを犯さない事にある。王道や正道は、その間違いを避けるための定石だ」
孫子を学び、幾多の戦場を駆け抜けた歴戦の名将武田信玄は、絶対に「相手の戦力が分からない状態で戦う」という愚を犯しはしない。
それが致命的な結果になると熟知している名将だから。
ほどなくして、武田の陣太鼓の合図と共に、前線で今川本隊を包囲していた武田軍の両翼が潮を引くように離れていく。一糸乱れぬその動きは、まるで最初からそう決められていたかのようだ。
この戦いにおいて、武田信玄の選択は正解だ。駿河侵攻は失敗するが、このまま包囲され武田軍が壊滅する事を考えれば、まだ取り返せる失敗だ。
「氏次殿。本陣の庵原様にこの手紙を届けてください。無理に追撃はせぬようにと書かれています」
「師……十英殿。すでに庵原様はご存知かと思いますが、伝える必要がありますか?」
「声に出して伝えることが必要なのです。庵原様にではなく、その周りにいる人たちにです。彼らもすぐに理解するでしょう」
すでに武田本隊も退いており、小山田隊が傭兵部隊と戦いながらも、じりじりと今川本隊の進路上へと戦場を移動させようとしている。
殿軍として残る為だろう。
今川軍一万を押しとどめるには、小山田隊だけでは足りない。だが、それは包囲されていた今川軍が本気で追撃したならばだ。
そして、オレはそれを押しとどめた。武田軍に甲斐へ戻ってもらうためだ。
理由は簡単だ。
実は、鵜殿氏長率いる伏兵部隊の数が1000程度しかいないからだ。今回、傭兵は総勢で5000にも満たない数しか揃えられなかった。集められた金額の問題もあったが、相手が甲斐の武田家である事が知られると、命が惜しいと断られるか、予算以上の値を吹っ掛けられたのだ。
故に、ここで武田軍を壊滅させる事は不可能だ。であるなら、武田軍には退いてもらわなければならない。
今必要なのは、武田家の敗北という事実であって、今回の戦にそれ以上を求めない。
武田家においても、今回の敗北は手痛いものの、致命的な状況を回避できた。
まだ次がある。戦力の減少は最小限であり、敵対した今川家にも、険悪になった北条家にも、まだ武田家は対抗する力を残している。
武田信玄にとっては、これは取り戻せる敗北だ。
彼の今まで経験した敗北と同じように。
「氏次殿。武田本隊の撤退をもって、小山田隊に降伏勧告を出してください」
「はい。すでに矢島に手はずを整えさせています」
「拙僧は駿府へ戻ります。後は氏長様の指揮下に入るように」
「はい、十英殿。お疲れさまでした」
そう言って、頭を下げる鵜殿氏次。一応、かつては師弟の関係だったが、元服して今川家一門になった彼の方が今川家で地位が高かったりする。最初は様付けしないように練習させたほどだ。
そして、その言葉にふと気がついた。
「ふむ。疲れか。そうか、緊張していたのだな」
「十英殿?」
「いや、その理由が分かってな」
「と言いますと?」
「考えてみれば、拙僧にとってこれが初陣になるのだな」
天を仰ぐ。戦場に出たくない一心で家族も故郷も捨てたのに、この有様だ。
しかも、そんな忌諱すべき戦場を一から十まで自分で用意しているのだから、救われない。
「詮無き事と嘆く事すら出来ん」
そして残念な事に、オレが用意しているモノは十で終わりではないのだ。




