86 宍原の戦い③
今川軍の伏兵の登場は、前線で戦う兵達にも届いていた。
後方に現れた敵軍に浮き足立つ武田兵達。
「うろたえるな!」
しかし、歴戦の指揮官はそんな部下達を叱咤する。
「見よ、あの伏兵の場所を。明らかに遠すぎる。ここに来るのに余計な時を要するは必然。その前に、今川軍を追い返せばよいのだ!」
指揮官の言葉に、兵達の混乱は急速に収まっていく。たしかに、現れた伏兵の位置は遠い。自分達を背後から襲うにも、本陣を狙うにしても距離がある。
歴戦の御館様なら、それまでに対処してくださるはず。その信頼感が、指揮官の言葉に力を与えていた。
「今川には戦の分かる将がいないと見える」
戦の定石すら知らないその行いを、古参の指揮官は鼻で笑った。
しかし、すぐにその表情を厳しくする。今川軍の圧力が増したのだ。
今川軍からも、自軍の伏兵の出現は見える。予想外の援軍に士気も上がろうというものだ。
「その意気やよし。だが、その程度。武田の兵を甘く見るなよ」
指揮官は、ますます激しくなる前線に獰猛な笑みを浮かべた。
「擬兵か」
「御意。伏兵として姿を現すには遠すぎます」
武田信玄は、そう進言する真田幸隆の言葉にあごに手を当てる。
確かに、この戦いの場所を宍原にしたのは、今川軍が陣取っていた為だ。故に、事前に兵を配備する事は不可能ではなかった。
しかし、真田幸隆の言葉にも一理ある。
伏兵の数は約三千ほど。それをどこからもってきたのか。今川家は遠江を攻める徳川家と、駿河を攻める武田家の二面作戦を強制されている。徳川家に対して兵を割いている以上、武田家に対処する兵は1万程度。それは、真田幸隆をはじめ、武田家の知恵者や諜報に長けた者達を集めて算出した数だ。
そして、前線で戦う敵は1万2千。伏兵と合わせて1万5千。誤差ともいえるが、多すぎる誤差でもある。
遠江の対徳川の兵を割いたわけではない。遠江へは密かに腹心の高坂昌信を送り込んでいる。その目的は、遠江の今川と徳川の情報を集める為だ。数千の兵を引き抜いた事を、戦巧者の高坂が見逃すはずがない。
真偽を確かめる偵察の兵は送っているが、その兵が戻るまでに時間がかかる。
「御館様。伏兵に動きが」
近習の言葉に、全員の視線が再び伏兵の方を向く。北の森から見えていた「足利二つ引き」の旗が、一斉にこちらに向かって進み出したのだ。
進言していた真田幸隆の眉間にシワがよる。もし、自分の進言どおりに擬兵であるなら、前進して敵に姿を見せるわけがない。数を多く見せるだけの兵が前に出て戦うなどありえない。
しかし、現に臆することなく伏兵がこちらに向かっている。
「後詰めの小山田隊に伝令を出せ」
「……ハッ」
信玄の命令を受けて伝令が出て行く。武田家家臣の小山田信茂は、今回後詰めとして1000の兵を持って待機していた。
伏兵が本当に三千なら、半分に満たない小山田隊では難しい相手だ。しかし、本陣を直接攻撃される事を考えれば、まだましだ。
伏兵の初動を抑えることが出来れば、兵を手配して小山田隊を助ける事もできる。
擬兵なら脅威にはならぬし、本当に伏兵であっても対処はできる。
やがて宍原平原に姿を現す今川軍の伏兵。しかし、その前には武田信玄の命で兵を配した小山田信茂の部隊が展開していた。
自分達の姿を隠していた山岳地帯の木々が、自分達の進軍の邪魔をしていたのは皮肉な話である。現れた距離が遠い事もあり、小山田隊が準備を終える前に到着する事はできなかった。
しかし、それでも小山田信茂の表情は硬い。
次々と姿を現す兵の数が止まらないのだ。
500を超え、1000を超え、2000を超える。それも近隣の農民を集めただけではなく、鎧兜に槍を持った間違いなく足軽たちだ。
「擬兵ではなかったか・・・」
相手の数は3000。自分達は1000。厳しい戦いになるだろう。伏兵が擬兵でない事は本陣でも確認できたはずだ。いまさら、自分達が報告する必要はない。
ならば、自分達のするべき事はただひとつ。
「決して抜かれるな。死んでもここで押し留めよ!!」
敵の進撃を止める。そうすれば、御館様が必ず手を打ってくださる。




