81 開幕
永禄八年二月
二つの報が今川館に入る。
ひとつは、先の足利将軍足利義輝の実弟である足利義秋が、尾張織田家に身を寄せ上洛を要請。それを受け入れ、織田信長は岐阜城から上洛を宣言したのである。
「今川家には来なかったのか?」
「来たが無視したよ。今川家は足利家の連枝ではあるが、当主でも将軍職でもない無位無官の男の命令を聞く必要はないからな」
オレの問いに、飛車丸がつまらなそうに答える。
確かに将軍の弟である義秋は、そもそも永禄の変の段階では、仏門に入った僧侶であった。あの事件の後、三好三人衆による追撃を逃れ還俗して足利義秋になったのである。
前にも言ったが寺に入るという事は、世俗から隔離されるという事だ。
武家社会的な意味合いで言えば、引きこもりと同じだ。オレのように寺の中で内職をしていたとしても、武家社会に関して言えば「評価されない項目」でしかないわけだ。
要するに、前の職業(寺)での経験を生かせない職業であり、職種が違う為に、キャリアと認識されないのである。
つまり、還俗したからといっても現段階で義秋はただの新入社員でしかない。征夷大将軍になるために朝廷に働きかけているのだろうが、今川家は朝廷よりも室町幕府の幕臣という立場が強い。つまりは、征夷大将軍の正式な認可を受けて、足利家当主となる事が協力の大前提だ。
現代風に言えば、義秋は知事選挙中の候補者であって、今川家は官僚の幹部職。当選すればその意思を反映するため働くが、選挙の結果が出るまでは、候補者はただの市民でしかない。
とはいえ、当選した際に冷たい反応をしていた事を覚えられたら、後々面倒なことになる。人は感情の生き物だ。
もっとも、それはこちら側にも言える。
「どの道、向こうもこっちに用はないさ。良い返事をしたところで、織田家との和議。徳川家との和議。それだけだ。先代の実弟殿では、遠江の支配権を取り戻す権限すらないからな」
実際に、外から見れば今川家は斜陽の時代を迎えている。桶狭間の大敗以降、三河を失い、遠江にまで攻め込まれ衰退する一方だ。
この状況で、上洛できると思う奴は普通いない。まだ、武田家か上杉家を頼るほうが目がある。
逆に言えば、織田家を頼り今川家との和議を結べば、その過程で徳川家との争いを収め、織田家の上洛の援軍にすることも可能だ。
まあ、それを承諾するメリットが今川家にないためスルーされているのだ。
ついでに、それがなったとしても織田家としては徳川家の助力は借りないだろう。
上洛する栄誉を織田家で独占するほうが利益が大きい。上洛させた功績を織田家で独占する。逆に言えば「将軍を上洛させる力がある」と日本中に知らしめるだけで、大名として武家として名を馳せる事になる。
それを得る為に上洛する織田家にとって、徳川家の存在はいいところ武田家と今川家への盾だ。
要するに、今川家にとっても織田家にとってもアウトオブ眼中という事だ。
問題はもうひとつの情報。
武田義信、廃嫡の上切腹。
飛車丸の機嫌が悪い理由だが、この情報の正否は今後の行動の根底にかかわる為、確認する。
「飛車丸。この情報の出所は?間違いではないのだな」
「ないな。妹を駿河に送り返すと武田家から正式に連絡が来た」
臭いものには蓋か。
実際、この事件発覚の原因はオレにもある。オレが寿桂尼様に頼んで圧力をかけてもらった事だ。
嫡男武田義信の廃嫡は、武田家の将来にもかかわる重要機密事項だ。実際、先の飯富虎昌の粛清も、それを隠すためのカバーストーリーとも取れるほどだ。そこまでして隠す必要がある内容である。
そんな秘密にしている事項に対して、他国から廃嫡する嫡男の正室の助命を匂わせる話があったらどうなるか。
普通に考えて「バレている」と思うだろう。
隠す必要がなければ、さっさと処理するべき案件だ。実の父親が後継者を殺すという醜聞は。
臭い物には蓋というわけだ。
「帰って来た妹君の対応は?」
「寺に入れる。ばあちゃんがその辺は手はずを整えているさ」
夫と子供を義理の父に殺されたのである。少なくとも、夫婦仲は悪くなかったはずだ。名門武田家嫡男の妻として、当主となった後の正室として、明るい未来があると思っていた心中はいかばかりか。
「豊。余計な事はするな」
「……」
なにを言っているか分からない。そういう表情を向けるが、飛車丸は不機嫌な顔のまま、言葉を続ける。
「この件に、これ以上は手を出すな」
はっきりと言ったその言葉に、無言のまま肩をすくめる。
そんなオレを不機嫌そうに見ながら、飛車丸は言葉を続けた。
「これで武田家との縁は切れた。それでいい」
「……いいんだな。辛いぞ」
「こんなものは、まだ序の口なのだろう」
その問いに返事はせずに、こちらを見る飛車丸を見返す。追求もそれ以上の質問もないようなので、ため息をひとつつくと、オレは飛車丸の部屋から出た。
****************
織田家の居城岐阜城。
足利義秋を伴い織田家の総力をかけた上洛をするべく、準備が進められていた。
大量の物資。大量の兵。それを指揮する家臣達。
その城の一室で、織田信長は重臣達と上洛に向けての打ち合わせをしていた。
近江の浅井家とは同盟を結んでおり、伊勢の北畠家は手中に収めつつある。邪魔になるのは六角家と、近畿に居座る三好家。
しかし、勝算は十分あった。美濃攻略に向けての外交戦略により、実質的な兵力の被害は少なく美濃の戦力を取り込み、伊勢攻略により津島の海運の利益が拡大したことと、豊かな美濃の国力を手に入れたことで、軍事、農産、商業において倍増の上に現在進行形で増加しているのだ。
あとの問題は、外である。
「殿。尾張の東を徳川に任せるのは承知しました。しかし、美濃の東はいかがしますか?」
家臣の柴田勝家の言葉に、信長の視線が向く。
「同盟の打診はしておる」
「せめて、和議の確約が得られるまで……」
「……不要だ」
「しかし、相手はあの武田ですぞ」
相手はあの武田信玄である。足元をすくわれるどころか、足から食われかねない戦国の雄。その対応には細心の注意が必要であることは、誰の目にも明らかだ。
「権六(勝家の事)。武田信玄は怪物だ。今川義元に匹敵するような怪物だ。その扱いをあだやおろそかにするようなワシと思うか?」
「は?」
「もし、信玄坊主が出て来るなら、ワシは全身全霊をかけて対処せねばならぬ」
そういうと、まるで事実の確認をするかのように、落ち着いた声で言葉を続ける。
「だが先約がある。その刃は信玄坊主にどこまで届いているのやら……」
「それはどのような?」
わずか数年で尾張を手中に収め、さらに長年の敵であった美濃一色家を滅ぼし、新しい公方様より頼りにされる。ウツケと侮っていた頃には想像もしなかった才気を放つ主君の言葉を促す。
主君の判断を否定するのではない。自分は、主君である織田信長は英雄武田信玄に相対できる器量を持っていると確信している。
しかし、相手はあの武田信玄。決して侮っていい相手ではないのだ。
「……」
「……」
「ワシにもわからぬ。だが、それゆえにわかることもある。信玄が進むのは西ではなく南だ」
「南、でございますか」
「そうよ。そして南に動いた時、信玄は負ける。完膚なきまでにな」
「何ゆえそのような事が」
「ワシが全身全霊をかけるならそうするからじゃ」
「では、それはどのような?」
自分では及びもつかない考えがあるのかと、勝家は信長に詰め寄る。遠くを見るように目を細めていた信長は、唇を軽くゆがめると何かを振り払うように頭を左右に振った。
「さあな」
「さあなと!?」
あんまりにもあんまりな答えに、勝家が悲鳴のような声を上げる。
「考えてやらん。知ってやらん。知ろうとすれば、より知りたくなる。より知れば、手を出したくなる。そんな余裕はない。だから、考えてやらん。結果だけ見て笑ってやるのよ」
そういって追求を切り捨てた信長の顔を見て、柴田勝家はなぜか「ウツケ」と侮っていた頃の主君の顔を思い出した。




