80 背を見続ける者
永禄七年十二月
徳川軍敗北。
天竜川をはさんで布陣した今川軍と徳川軍はどちらも渡河の不利を避けるために、睨み合いを続けていた。
先に動いたのは徳川軍であった。別働隊を編成し、睨み合いをする天竜川下流域ではなく、上流から密かに川を渡り、側面から今川軍を突こうとしたのだ。
しかし、その動きは今川家宿将、岡部元信に察知されていた。
岡部率いる今川軍は、上流で徳川軍を待ち伏せし、奇襲により徳川軍を追い返した。
とはいえ、必死の抵抗をする徳川軍相手に被害を出しており、深追いを避け撤退する徳川軍を見送る事となった。
そんな話をよそに、オレは何度目かになる今川家の重要人物の館にお邪魔している。
今川氏真の祖母寿桂尼様の館である。
「こう見ると……」
いつもの姿で座る寿桂尼様を、思っていたより小さく感じた。前に面会したのは遠江騒乱の時だ。今川家家臣達の末席を汚すオレのような小者が、名門今川家の親族のトップとも言える人間に、挨拶程度の理由で面会できるわけもない。さらに、政治的にも武田派閥の人間と親しい間柄であるという事が、そうは近づけない理由となっていた。
そんな、オレの来訪を快く受け入れてくれた寿桂尼様は、挨拶もそこそこにオレのほうを見て笑う。
「さすがお弟子さんですね。崇孚様(太原雪斎のこと)に似てきました」
「さて、そうでしょうか?」
困ったように苦笑しつつ答える。
生憎、師匠とは血縁上立派に赤の他人だ。ましてや、比較対象の師匠について親と子どころか祖父と孫くらいの年齢差がある。写真もない時代であり、オレに師匠の若かりし頃なんて判断する事は不可能だ。
そんなオレの様子に、口元を手で覆って、おかしそうに言う。
「雰囲気がですよ」
そして、口元から手を離すと、口元を引き締めて表情を変える。
「……大戦ですね」
「いいえ」
「?」
「大戦にはならぬでしょう」
オレの返事に、寿桂尼様は納得するように小さくうなずく。
「なるほど。十英殿は戦が不得手であったな。さもありなん。で、本日はいかなる用か」
分かっちゃいるけど、挨拶代わりの腹の探り合いが日常茶飯事とか、絶対おかしいよな。まあ、面と向かって会う機会が少ない以上、情報収集はやってしかるべきか。
「甲斐武田家とのつながりが絶たれつつあります。そこで、北条家より縁を繋いで頂きたいのです。そのための手はずは友野屋に整えさせております」
「北条より、武田になにを求める?」
「三国同盟の破棄に伴う、遺恨の軽減を。他人からではなくお身内の寿桂尼様なら、受け入れて頂けるかと……」
そう言って、オレは頭を下げる。三国同盟の要は、各大名同士の婚姻である。
しばし返事はなかったが、力のこもった声がオレに降りかかってきた。
「そうか、それ故に甲斐か。それは、おぬしの仕業であるな十英殿」
「はい」
「かの地にあるは我が孫娘。それが生んだ子は我が曾孫ぞ」
「左様で」
寿桂尼様も理解したようだ。
オレの目的は、三国同盟で武田義信に嫁いだ今川家息女の嶺松院様の助命。武田義信が排除されるなら、遺恨を残さないように縁者も処罰対象となる。ましてや、敵対する相手である今川家の娘だ。しかし、北条家からの圧力なら、関係悪化を避けるために武田家が飲む可能性は高い。正室といえど他家から来た女。影響力は低く、無理に殺す必要はない。
しかし、彼女の子供たちは別だ。武田義信の血筋である事は、後の禍根となる。赤ん坊であろうと、生き延びる道はない。
ましてや、敵対する事になる相手に、反乱の口実を与える事は絶対にありえない。
つまりは、オレが武田親子の仲を裂いた事は、間接的に寿桂尼様の曾孫を殺す事につながる。
「その事について、なにかあるか?」
「すべては、この十英承豊の意が生み出したものなれば、怨恨はすべて拙僧一人に……」
「たわけ」
「……」
オレの言葉を寿桂尼は短く、しかし鋭く遮る。
「難儀な事よな十英殿。その情と欲はお主の心を蝕む毒ぞ」
「それすらも、必要な事なれば」
「……難儀な友誼を結んでしまったものよな、龍王丸は。いや、そこまでさせねばならぬその性根こそが難儀の源か」
「……」
「あいわかった」
その言葉に、小さく息を吐く。いつもこの人には見透かされているような気がして困る。つい余計な事を言ってしまいたくなるのだ。
だが、これで必要な事は整った。
礼を言うべく頭を上げようとして……
「十英殿」
「はい」
「龍王丸の父である義元は英傑であった。しかし、義元は義元。氏真は氏真。父と子であっても同じではない」
「……」
「それは、崇孚様と十英殿にも言えること」
「!」
上げようとした頭が止まる。あふれそうな感情を飲み込んで顔を上げると、上座に座る寿桂尼様の目を正面から見る。
そんなオレの視線を、しわまみれの顔にある目をさらに細めて跳ね返し、そして口元が笑みを作った。
「崇孚様は崇孚様。十英殿は十英殿。崇孚様は崇孚様として生きました。十英殿は十英殿になればよいのです」
その言葉に視線を落とし、かつての自分の悩みを思い出して、こぼれるように笑う。
答えは出ているのだ。
「ならばなおのこと、師のようになりたいと思うのが、私の願いです」
「でしょうね。崇孚様もそうでした。何かを成そうとして。何かを成して。その先を進もうとしました。困難を前に奮い立つのが男子なのでしょうね」
「そうなのですか?」
「妾だから分かるのです。妾もかつては何かを目指し、そして歩みを止めました。それからずっと進む者達の背中を見てきました。夫の背中。息子達の背中。そこに孫が加わったとしても、それが血による業であるなら今川家の人間として見届けましょう。そして、あなたの師の背中を見た妾は、あなたの背中も見届けます」
「……ありがとうございます」
そういって、オレは頭を下げた。




