08 尾張の密談
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ありがとうございます。
愛知県からこんにちは、十英 承豊です。
ええ、戦国時代のこのあたりの地名は尾張っていいます。
”一巻の終わり”って意味じゃありませんよ。
三河に行って、遠江を攻めさせるよう説得するはずのオレは現在尾張にいるわけです。
かつて徳川家康(現在松平元康)は人質として駿府今川家へ向かう際、織田家の計略により、尾張に連れて行かれたという前例があります。
ご安心ください。別に捕まったわけではありません。
ココに来る為に、駿府から船に乗り三河をスルーして津島湊から尾張に入っただけです。
そして現在、尾張にあるお寺『長光寺』にご厄介になりました。もちろん、初めて来た寺です。縁もゆかりもありませんが、一つだけ共通点があります。オレがいた臨済寺は禅宗のお寺で、オレは禅宗の坊主。そして、この寺もまた禅宗のお寺なわけです。
そして、オレの目の前には2人の男がいる。もちろん坊主ではありません。
織田信長とそのお付きの人です。
知らない人はいないと思いますが、飛車丸の父親である今川義元を倒したのが、この織田信長です。
無名の坊主にわざわざ大名が面会に来てくれるのにも実は理由がある。一つ目は、オレが岡部元信様から書状を預かっているという事。
なんでも桶狭間の後、今川義元の首級の返還を元信様が求めた経緯があり、そのお礼の手紙を返す役目を請け負ったのである。ついでに「お話したい事があります」と言うのを付け加えただけだ。
もう一つは、臨済寺が禅宗である事だ。宗教組織である為に、国によらない宗教関係による横のつながりがあり、今は亡き高名な師匠の名前を使って尾張のお寺の住職経由で、尾張の大名に手紙を届けたわけである。
「して、いかなる用か?」
「ええ。まず、こちらを」
そういって差し出すのはオレが模写した『今川仮名目録』。そして、目の前で開いて見せる。
開いたページには、他と同じく一言一句間違えることなく仮名目録の内容が書かれている。
ただ他との違いは、その第二十四条に一本の朱線が引かれていること。
それは、海運と陸運の税に関する条文だ。その意味を、港を持つ尾張の大名がわからないわけがない。
「…」
「密約を結びに来ました」
「…」
「何かしていただく必要はございません。するまでもありますまい。ただ、掣肘せぬだけで結構」
眉間にしわを寄せてみる目は、コチラの意図を見抜こうとしている気迫に満ちていた。ちょっと怖いけど、師匠の沈黙の眼力に比べれば一段劣る。
「実をいいますと、尾張織田家など、今のところお呼びではないのですよ」
笑みを深くしながらそう言い放つ。信長の横に控える武士からの視線もきつくなる。
「勘違いしないでいただきたい。三河遠江の先にある尾張にまで手を出す余裕がないのです。駿河は隣国が物騒すぎる」
結構ぶっちゃけたつもりなのだが、控えの武士の視線は緩まない。変わりに信長の眉毛が少し上がる。
うん、今ちゃっかり三河だけでなく遠江を切り離すとぶっちゃけたのを理解してくれたようだ。
こうやって手をさらしたところで、どうせ織田信長に出来ることなどないのだ。もし、こちらの意図をくじくなら海運を規制することが可能だ。だが、その場合尾張織田家は自分達の生命線を絞ることになる。桶狭間を勝利に収めたとしても、なにかを得たわけではない。織田家にあるのは、まだ尾張一国。
余裕があるわけではないのだ。
「駿河は豊かな国かな?」
信長が聞いてくるので、笑みを浮かべたまま答える。
「駿河は海に面した豊かな土地です。駿府の都は活気溢れる港町でもあります」
「それでもつと?」
不可能だろう。今川家が武田家と北条家と互角に渡り合えたのは、駿河、遠江、三河の三国を治める東海一の弓取りだからだ。一国程度の力では、勝利はおぼつかない。
なので、朱線を再び指し示す。
「故にこの一条でございます。尾張の先代桃厳(織田信秀)様も、尾張の家老職でありながら、三河や美濃の大名を相手取っておられたとか」
「…」
何気にウチの師匠も、尾張の織田信長の父親については警戒しまくっていたからな。米ではなく銭による富国強兵。その異常性をいやというほど聞かされたわ。
さて、コレで一応こちらの内情はさらけ出したぞ。そのための手法も、当人の息子である織田信長が理解していないはずがない。
問題は、織田家が得られる利益がない事だ。
「そして最後に、この密約の代価を提供しましょう」
「…」
「三河と誼を通じるというのはいかがか?」
信長の口元に笑みが浮かぶ。
ああ、そうだろう。織田家が狙うのは三河か美濃の二者択一。三河を狙うなら、その先にある今川家は無視できない。しかし、矛先を美濃に向けるなら後方の三河が抑えられるのは天佑。それは同時に、今川家が織田家と争う必要がないことにも通じる。
しかし、尾張織田家と三河松平家は長年争い続けた関係だ。織田信長と松平元康の縁といっても人質時代の個人的なもの。大名家同士の盟約の理由にはならない。
だが、オレはその理由を与える事が出来るのだ。
その為に三河に行くのだから。
「親父が言っておったわ。駿河には厄介な坊主がいるとか」
「桃厳様の代となると、それは師の崇孚様の事でしょう」
「すでに鬼籍に入ったと聞いたが。そうか、当代はお前か」
口元に笑みを浮かべながら、信長は鋭い視線を向ける。
だが、それだけだ。同意はなったと見てオレは頭を下げる。書状を交わすわけでもなく、証文を残すでもなく、口頭による約束。故に密約。
何の力もなく、何の拘束力もない。逆に言えば、肝胆相照らしたという意味でしかない。
外交関係という意味では、それで十分だ。