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76 遠江侵攻

永禄七年 五月


三河松平家が遠江に侵攻を開始。それに呼応するように、西遠江の豪族井伊家が松平側に寝返った。

その知らせに、駿府の今川館は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。


「曳馬城は松平軍に囲まれ、落城は時間の問題かと……」

「駿河の兵は?」

「まだ、集まるには時間がかかります」


戦国時代において、兵士とは足軽であり農民だ。平時は領地に散らばり日々の仕事をしている。それらを集めるために陣触れを出すのだが、電話もメールもないこの時代、人を集めるためのお触れを出すのも人力だ。

それを効率化するために、『仮名目録』では連絡体制を整え「寄り親」「寄り子」制度を取り入れている。内容は、小学生を集団登校させることで保護者(家臣)の手間を効率化したようなものだ。

システムは単純で、今川家家臣が学校の連絡網のように通達する事で、寄り親が寄り子を集めるという上意下達が迅速に実施されるようになった。これにより、今川家は兵数はもとより、兵を集める速さも飛躍的に上昇した。

とはいえ、あくまでもそれは常識の範囲内。警戒態勢でもない日常から突然の奇襲に即座に対応できるような魔法ではない。当社比程度の改善でしかないのだ。


攻め込んできた松平家に対抗するために、館にはひっきりなしに伝令がやってきては出て行く状況だ。緊急で評定の間に集められた各重臣達も、その様相はばらばらだ。戦支度の者もいれば平服の者もいる。


「秋葉城より、鵜殿様が兵500を率い出陣。井伊谷を牽制するとの事です。朝比奈様も掛川で兵2000を集め、曳馬の後詰めに向かっています」

「足りぬな……」


松平軍の総勢6000に対し、こちらで動けるのは半分の3000に満たない。地の利がある遠江だが、その最大の恩恵を受ける西遠江が先の遠江騒乱による被害からの復興の真っ最中だ。


「み、三河の動きを察知できなかったのか」


三浦殿の言葉に、重臣一同の視線がオレを向く。そういえば、オレって三河松平担当だったっけ。正式な役職ではないし、今回の理由はきっちり用意してある。


「三河に捕らわれて以来、縁は途切れてございます。ツテを頼ってはいますが、一朝一夕とは……」


それに、すでに松平家が動いた以上、オレの不備を追及したところで事態は解決しない。

まあ、三浦様もオレの失態を咎めるというより、何でもいいから情報がほしいという感じだ。

オレの返事にあからさまに落胆して肩を落とす。

それを見て、なだめるように今川氏真が手を振る。


「それよりも、今は松平の動きだ。将軍弑逆で動けぬところをつかれた。庵原は駿河の兵が用意出来次第、遠江で朝比奈隊と合流せよ。最悪曳馬はよい。だが、天竜川を越させるな。先触れを出し朝比奈にもそれを伝えよ」

「はっ」


今川氏真の言葉に、鎧姿の家臣庵原忠胤は頭を下げると、息子の元政を伴い部屋を出て行く。

天竜川は遠江の東西を区切る境界線だ。当然、守るなら川を防衛線にしたほうが有利だ。

曳馬城を落とす際の被害を考えれば、数で劣っていても川境での防衛戦なら勝ち目はある。

出遅れた以上、最悪の事態を考えて被害を抑えるよう指示を出す。

後は、曳馬城がどれだけ持ちこたえるか。駿河の本隊がどれだけ迅速に駆けつけられるかの時間との勝負だ。



日暮れまで今川館での対応は続き、今日は終わりとなった。正確には飲まず食わずで対応していたので、皆も疲れたというのが正直なところだろう。

そんなわけで深夜。いつもの飛車丸の私室でだべる。お互いに疲れてはいるが、ここで対応を誤るわけにはいかない。


「想定どおりか」

「ここまではな」

「ここまで?」


オレの言葉に不審がる飛車丸。


「元康が天竜川を越えるか否か」

「越えるのか?」

「越えるなら潰すだけだ」


これだけ手と口を出してわからないなら、もう松平元康に用はない。欲に振り回される戦国大名など居るだけ邪魔だ。退場してもらう。

井伊家との縁はまだ残っている。最悪駒を失う事にはなるが、小野道好にすべての責任を取らせ、井伊直親に動いてもらい今川家に再び寝返らせる事は不可能ではない。


「簡単に言うな。三河は強いぞ」

「一向一揆も東三河の騒動も表面上おさまったように見えるだけだ。焚きつける火種はいくらでもある」


三河は松平家によって統一されたものの、完全にまとまったわけではない。一向一揆の後始末だって完全には終わっていないし、東三河の豪族達だって松平家に心から服従しているわけではない。

だからこそ、小野道好の甘言により、今回の遠江侵攻が誘発したのだ。当事者である松平元康自身、実感しているはずだ。遠江への野心云々の問題ではない。己の意思によってではなくこの遠江侵攻が始まった事を。

松平元康は三河豪族達を掌握したわけではなく、彼らに三河の主と認められただけだ。

ならば、東三河の豪族達を味方に引き入れ、松平家の退路を絶てば、松平家の遠江への侵攻は終わる。駿河と東三河で挟み撃ちにできる。

あとは内部で井伊家が寝返れば、後先考えずに猪突猛進した松平家は詰むのだ。

親族がほとんどおらず、まだ幼い子供しか後継者が残されていない三河松平家を掌握するのは容易な話だ。

元康が死んだ後の講和の条件として、松平元康の嫡男の竹千代を駿府に人質に取れば三河再統治は完了する。

竹千代の母親は今川家の人間である。母子共に駿府に迎え入れる正当な理由があるのだ。

今の三河の独立など砂上の楼閣でしかない。


それは、当初の人質交換をする前から可能な手であった。三河に手を貸す前から、この形での落とし所なら用意できた。

だが、オレは松平家に助言を与え、急速に勢力を拡大させた。

本人のカリスマの範囲内でしか統治できない戦国大名の統治方法を利用し、松平元康の成長途中である器量カリスマを越える勢力を与えたのだ。

このまま、己の器量を見誤って自滅するなら、それまでと見限るのは当然だろう。


「だがそうなれば……」


見限る事を覚悟はしているが、それだとオレの策は大きな方向転換を必要とし、時を失う。

まず、武田信玄と正面から戦う事になる。別にそれは致命的な問題ではない。対応は出来る。今川家を守る事は出来るだろう。武田信玄に勝つ方法もないわけではない。

だが、勝った先が足りない。

オレがただの軍師ならそれでもよかった。倒し、奪い、守るだけでよいのならば。だが、軍師として名を成すには数十年の歳月を要するだろう。

無駄な歳月だ。

眉間にしわを寄せ思考のドツボに嵌ったオレの肩を、飛車丸がポンと叩いた。

視線を上げると、オレの不安を笑い飛ばすように笑顔を見せる。


「ま、元康を信じるしかあるまい。とりあえず俺達は足止めをする。その先は相手次第だ」

「……そうだな」


果報は寝て待て。オレに出来る事はない。それを理解したように飛車丸に笑い返す。

飛車丸にはそのまま次の仕事があるので、オレは今川館を退出する。




すでに日は落ち、半月と星々が瞬いていた。

昼からの騒動で、夜でありながらも駿府の町は熱気を帯びている。

そんな道を歩きながら、やはり一人になれば考えてしまう。


タケピー。お前は気がついているか。

オレが今川家に仕えた時、武田家か北条家のどちらかが敵になると想定した。どちらかとは敵対すると考えていた。そのために、双方の情報を集め隙を探り、そして武田信玄を討つと定めてオレは動いている。

だが、オレが寺を出た時、真っ先にオレは松平家を敵であると定めて動いていた。武田信玄よりも前に松平元康こそが、今川家の敵であると。

その意味がわかるか。

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