73 駒にて一手
駿河の港から船に乗り、いつもなら三河に入るのだが、その手前の遠江で降りる。
信虎による遠江騒乱以後、遠江の情勢は安定しており騒動は起こっていない。とはいえ、完全に平和というわけでもない。
隣接する三河を統一した松平家の動向を気にしなければならないのだ。
オレは遠江中央部にある相良港で降りた。あえて離れて降りるのは、船員からもオレの行動を隠すためだ。これなら、オレの目的地は遠江中央部だと誰もが思うだろう。信虎事件で遠江の豪族たちとは手紙のやり取りをしていたので、遠江の豪族達にもオレは知られていた。
逆に言えば顔が割れているということなので、目的地から離れて降り、余人の目がなくなった所で網代笠をかぶると、旅の僧という風体で東海道を西へ。
天竜川の東側にある秋葉城には鵜殿兄弟がいるので、そこを避けるように南の海岸線沿いに進み天竜川を河口から渡る。鵜殿家の家臣達には顔が割れているし、最近なんだか鋭くなった氏長に勘付かれると面倒になりかねない秘密の来訪だ。
向かう先は天竜川の向こう。西遠江の井伊谷である。
井伊谷を領地とする豪族の井伊家とは、当主の井伊直親が信虎の騒動に巻き込まれた際に取り成して以来の仲だ。
個人的に縁があるのだが、井伊谷には入らず、近くにある寺『長光寺』に逗留する。もちろん臨済宗のお寺だ。
そこで手紙をしたためて、小僧にお遣いに出てもらう。
数日待つかと思ったが、その日の夕刻に手紙を送った人物がやってきた。
「十英様。一瞥以来でございます」
両手を突いて深く頭を下げるのは、井伊家家老の小野道好である。井伊家直親を傀儡の状態から脱却させるべく、オレに協力してくれた人物だ。
遠江騒動の際に井伊家の反信虎派をまとめ、信虎派が壊滅した後は、当主井伊直親の腹心としてその手腕を振るっている。
井伊家の存続のため手を貸したことで感謝され、年に1、2度地産の物を送ってくれる。なかなかの律義者だ。
では、さっそく約束を守ってもらうとしよう。
「内密とのことですが、本日はどのような要件でございましょう」
「ああ。かねてよりの約束です。今川家を裏切ってもらいます」
オレの一言で、日が落ちようとする部屋の空気が凍った。
「十英様。いまなんと?」
「三河にツテがあるでしょう。それを使って松平家側についてもらいたい」
「しょ、正気ですか?」
悪い冗談だといわんばかりに引きつった笑いを浮かべながら答える道好に、口の両端を持ち上げる。
「約束したはずです。井伊家の存続。その為にどんな事でもしていただくと」
「そ、それは!」
「今の井伊家に三河を収めた松平家を止める力がありますか?今川家は動けません」
「遠江が一丸となれば……」
「ない」
小野道好の言葉を斬って捨てる。先の遠江の騒動で信虎に協力した者達は、罪を償うために討伐の先陣を切り被害を出した。井伊家も例外ではなく、それは道好自身よく知っているだろう。外をどう取り繕おうと内情はボロボロだ。
そして今川家は、西遠江の状況をあえて放置していた。
「今川家が動ける状況は唯一つ。今川家領内の内紛を治める為」
「その内紛を井伊家で起こせと……」
「三河につく理由ならあります。先の遠州騒乱で、氏真様より直親様は許されこそしましたが、井伊家が信虎に加担していた事実を忘れたわけではありません。一時は見逃したものの、疑惑は増すばかり。今川一門である鵜殿家との婚姻により、井伊家の血が絶える心配もない」
「ま、まさか」
「寝返る理由としては十分でしょう?他にもありますよ。先の騒乱の折、井伊家は曳馬城攻略に多大な貢献をしました。しかし、氏真様はその功績に報いる恩賞を出していない」
「それは、騒動の赦免と……」
「それは内々のものであったはず」
発言をさえぎるオレの言葉に、息を呑む小野道好。
ご恩と奉公の関係は、武家社会の根幹である。井伊家の中で言えば、信虎に加担した家臣の粛清により、今川家に許される事で事なきを得た。しかし、外から見れば曳馬城攻略の先陣を切った井伊家に、今川家が十分な恩賞を出していないとなる。
そういう意味で、井伊家などの西遠江の豪族達の復興が遅れているのは今川家のせいとも言える。
遠江の騒動の評価に、当事者と部外者とで齟齬があるのだ。
そうあるべくして。
「井伊谷一つでは足りないかもしれませぬが、なに、天竜川の下流には曳馬城がある。奇襲で攻め落とすには手ごろな城でしょう。先の騒乱の折に先陣を切ったのは、井伊家の精鋭でしたな。城の構造。周辺の地理。補修こそされましたが、それ以上の手は加えられておりませぬ」
完全に血の気の引いている小野道好に、笑みを浮かべてお膳立てが整っている事を伝える。
「他に、井伊家が滅びずに済む方法がありますか?」
「裏切ったとて、松平家の協力が得られなければ、今川家に滅ぼされるだけでしょう」
搾り出すように反論する道好。残念ながら100%協力を得られる現状でそれはない。
「道好様が対応を間違えなければ、その心配はありません」
「対応?」
「三河で起こった一向一揆は、一向宗との和睦により沈静化しました。一揆に加担した松平家の家臣達は、当主元康の温情により、松平家に戻る事が許されました……が、許されたからといって、裏切ったという事実が変わるわけではない。汚名を濯ぐ手柄が必要になります」
「それが井伊谷……いや、曳馬」
オレの言いたい事がわかったのだろう道好の目が揺れる。
悲しいかな、裏切ったという事実はなくならない。許されたとしても裏切りは裏切り。汚名を返上する機会があればそれに飛びつく。それが無ければ、彼らは自分達が本当に許されたとは思わないし、その不安を払拭する為に、彼らはなりふり構わずそのチャンスを物にしようとする。
「彼らは手柄に飢えています。本多、夏目、渡辺……三河譜代の重臣である彼らが動くという事は、松平本家が動くということ」
「なぜ、そこまで三河の内情に……」
「いたからですよ。その時三河に」
オレの言葉に目を見開く道好。今川家では、オレが三河で捕らえられた事は周知の事実だ。外様の家臣であろうとも、三河に隣接する井伊家が知っていてもおかしくない。
そこから何かを察したのだろう、食いしばるように口を閉じると、搾り出すように聞いてきた。
「なぜこの話を井伊家に…」
気が付いたのだろう。この話を井伊家にする必要はない。下手なリスクを考えるなら、井伊家を入れないほうが安全なくらいだ。なにせ、オレがさっき列挙した家に話を持っていけば、彼らは勝手に動いてくれる。
井伊谷という恩賞が増える分、三河武士達にとっては喜ばしいくらいだ。
笑みを深くして答える。
「井伊家を保証する約束でしたな。小野道好殿」
あの時に言ったはずだ。代価がいると。あれは遠江の騒乱から井伊直親を守る為じゃない。井伊家を守る為の代価だ。その為に、オレが求めたモノはなんだったか忘れたか?
今川家で忠義を尽くせば安泰だと思ったか?残念だったな。お前はもう今川家の者ではない。
お前はオレの駒だ。




