07 臨済寺の隠者
岡部元信はその男をまじまじと見る。
十英 承豊
『臨済寺の俊英』『雪斎の愛弟子』。
今川館でそうささやかれはじめたのはいつの日だったか。
今川義元公の宰相として、その深慮遠謀を遺憾なく発揮していた太原雪斎。
その英知を学ぼうと、臨済寺には今川家中の子息がこぞって詰め掛けた。
故に、そこで学ぶ俊英の話が今川館で聞こえてきたのは当然でもあった。
臨済寺で、雪斎殿不在の折に代わりに指南する同年代の小僧。
仮にも名門今川家の家中だ。
そのような輩に負けるでない。と、発破をかけてみたが、気がつけば懐柔されておった。
「口論巧みにして、人心機微を詠む」
元服前の子供達の噂に苦笑していた義元公が、重い腰を挙げ、軽い問答の後に神妙な顔でそう伝えてきた。
誰もが、その人柄を確かめたいと視線を向けた先で、師である雪斎殿は、苦笑を浮かべて答えたのだ。
「書庫にあるすべての書に目を通し、以後すべてを任せております」
齢十余の子供が、数百巻ある古書に通じ、知恵者雪斎殿よりその庵の管理を任されている。
そこまですれば、思い出せよう。
『今川仮名目録 追加二十一条』
義元公と雪斎殿とではじめた今川仮名目録の追加作業。その草案を氏真様が執り行う事で、今川家の後継という地位を確定させた。
少し考えればわかった事だ。かの名君、今川氏親様が晩年作り上げた『今川仮名目録』。それに手を加えるという難行に、まだ年若い氏真様に手を貸したのが誰かを連想するのは容易な事であった。
天稟。
自分だけではないはずだ。その者を召抱えたいと思ったものは。
しかし、結果はすべて「否」であった。
雪斎殿自らの薦めを持ってしても、臨済寺から出ることがなかった知恵者。
それを、今川氏真様が伴って戻ってこられた。
ああそうなのだ。
古書の一説。
三顧の礼。
この危急にあって、一条の光明。
ああ、そうとも。
名門今川家はまだ終わっておらん。この岡部元信。老骨に鞭打つことになろうとも、今川家が終わるわけにはいかんのだ。