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69 注がれる水

初めて甲斐の国に足を踏み入れる。といっても、甲斐の中心である甲府ではなく、巨摩郡下山にある館だ。

ちなみにこの巨摩郡だが、甲斐の西側を北から南まで含む広大な地域で、その南側にあるのが下山である。


「お初にお目にかかります。今川家家臣 十英承豊と申します」


目の前にいるのは、武田家家臣 穴山信嘉あなやまのぶよしという男だ。武田家の親族にして重臣穴山信君の弟である。

当主である穴山信君は武田信玄と共に関東へ戦に出ているため、その留守を預かっているのだ。

甲斐南部の豪族穴山家は、武田家と縁の深い一族だ。祖先は武田本家につながるし、現当主穴山信君(と目の前の信嘉)は武田信玄の甥にあたる。

そして同時に、長年甲斐南部を支配していた為に、隣接する駿河今川家とも浅くない縁があるのだ。

先の今川氏真へのとりなしにより、オレは今川家では武田派閥に友好的な人間と見られており、その評判ととりなした今川家武田派閥の家臣からの紹介をもって、甲斐武田家の豪族に話をしにきたのである。


「駿府よりの提案との事だが、どのようなご話か」

「はい。実は駿河庵原郡にて、市を開催しようと考えております」

「市とな?」

「はい。誰もが好きに売り買いできる市でございます」


この時代、商売というのは自由にできるものではない。

商人は基本的に店を構え商品の売買を行う。店を構える。つまり住民だ。支配者が領民を守る義務を負う。それは賊からの防衛的な意味もあれば、許可を与えるという形で正しい商取引を保障することにもなるのだ。

そして、他国を移動する行商人はそれに該当しない。

行商人は、その街の商人が商売する権利を持つがゆえに取引ができるのだが、ただの領民である客とは直接取引をする事ができない。正確に言えば、できないわけではないが、その取引を誰も保障してくれない。

要するに、客が強盗であっても訴えることができないのだ。

そこで、物を自由に売買できる場所を提供し、そこでの売買を保障する楽市という制度が出てくる。

要するにフリマだ。商人ではなく一般の人間が売買ができる。

もちろん、資格や許可が必要な特別な商品の売買は別で、これを自由に扱うのが楽座になる。

今回オレが提供するのは楽市であり楽座は別だ。そうでなくても交易の盛んな東海地域で、古参の商人の利権を侵害したら、今川家の信用は終わりだ。

楽市フリマであっても「商売が出来る」という商人の特権を侵害しているともいえる。もっとも、そちらに関しては場所と時期を決めての限定的な特権免除であって、商人の持つ「商取引の許可」を侵害しないことで理解を求めている。

これだけでも、中間搾取が減り経済の活性化という意味で有効なのだ。

ただ国内ではなく、国外についての問題がひとつ。利害関係の調整である。

そのために、わざわざ今川家の家臣の信用と紹介を得て、他国である甲斐の国までオレが出向いているのだ。


「ですが、庵原郡の北部となりますと甲斐にも近く、市の為に兵を配するとなれば、武田家に要らぬ警戒を呼びます」

「それゆえの通告か」

「はい」


当然のことだが、場所を提供する以上そこでの売買を保障する力が必要となる。強盗や揉め事などを抑止するために見せ付ける力が必要であった。

そのため楽市を守る兵を派遣する必要があり、国境に近い場所ではそれが隣国を刺激する可能性がある。

そこで、相互利害の調整という形で、オレが出向いているわけだ。


「それともうひとつ」


もちろん、それだけではないのは内緒である。

笑みを浮かべて相手を見る。


「いかがでございましょう。同時に甲斐でも市を開いてみては?」

「甲斐でか?」

「はい。駿河で購入した物を甲斐の市で売る。甲斐で手に入れた銭を駿河の市で使う。それだけで、ただの市では終わりませぬ。また、双方兵を配しているならこれはお互い様。無駄に警戒する事もありますまい」


利益の提案と規模の拡大。

相手も市を開催するなら、それを管理する兵力が必要となる。国境線でお互い市を開くことで、参加者にも利益がある。


「市の開催を毎月の日付と定めます。日時は天上天下の理なれば、人の介入を許しませぬ。たまたま、双方が同じ日取りで市を開いただけの事……」


今川家と気脈を通じ、不自然に肩入れしているわけではないと思わせるためにあえて逃げ道を作る。

重要なのは、これで「今川家で市を開くだけ」という報告だけではすまなくなる点だ。

自国で市を開くなら当主の許可が要る。その利益と不利益を説明し許可をもらう必要がある。

では、それを行うのは誰か?

それを行うのは誰に?


「実は、この市の開催は、氏真様たっての願いでありまして、武田義信様と共同で行ってみるのも双方利が有りと聞いております。どうでございましょう。まずはそちらからお伺いを立ててみては」


もちろん、これはウソだ。だがオレが提供した利益を一番欲しているのは、武田家当主としての器量を示したい武田義信だ。

塩とは違い実務面の話だ。成功すれば大名として立派な功績となるだろう。

話を持って行く穴山信嘉だって間違っているわけではない。次代の当主である武田義信に利益を提供し覚えを良くしておく事は家臣として当然のことだ。

武田信繁が川中島で死んだ今、武田家の後継者は武田義信であり、大名武田家の運営を担う重鎮だ。

ましてや、現在武田家は戦の真っ最中で当主武田信玄は不在である。甲府の留守を預かる武田義信に判断を仰ぐことは間違っていない。

そして、その利益を見れば断る理由がない。今川家とは同盟中であり、その関係は(いまのところ)友好的だ。そもそも、先代今川義元の時代から、武田家と今川家は同盟関係だ。武田義信が生まれた時から、今川家と武田家の友好関係は続いている。

その関係が途切れるとしても、市の開催を取りやめればいいだけで、双方に市への支障はないのだ。

ただひとつ、武田義信の実績と功績が増すという点にさえ目をつぶれば。

実利に目が行き武田義信による独断専行に走るなら願ってもいない。

もし武田義信が思慮深い人間であり、父親である武田信玄に判断を仰いだとしても問題はない。そんな大事な問題を、家臣が当主じぶんではなく義信に提案した時点で、家臣の意識が息子に向いている事を、武田信玄は認識することになる。


老いた英雄と、若き後継者。

何一つ間違いはなく、何一つ問題はない。

だからこそ、認めなければ不和の種となり、認めれば不安の種となる。

オレはただ、水をかけるだけ。


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