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52 元服と姫

※温かいお言葉について、ルビとの差異は誤字ではありません。

永禄五年八月


この日、鵜殿家の新七郎が元服し鵜殿氏長となる。

また二ヵ月後の十月吉日に、井伊家の娘である直姫との婚姻が決まり、そのまま遠江の旧天野領秋葉城を得る事になった。これは今回の騒動の中心となった西遠江を監視すると共に、その西遠江の豪族井伊家の娘を妻に迎え、彼等との連携を取れるようにという計らいである。

また、鵜殿家再興により、居候生活であった新七郎には駿府に新しく館が与えられ引越しとなる。もちろん与えられた遠江の領土が本拠地になるのだが、今川一門に連なる鵜殿家ゆえに、今川家の本拠地駿府に館を与えられたのである。

ちなみに、オレは相変わらず庵原家に居候である。

鵜殿氏長殿より一緒に移らないかとの誘いはあったのだが、新婚生活の邪魔をするのも、駿府から離れる事も出来ないので、温かくいわっているよと伝えて送り出した。



そんなわけで、今川館の一室で、鵜殿氏長の元服の儀が終わるのを待つ。

教育係とはいえ、あくまでも非公式な意味でだ。オレも氏長も庵原家の居候であり、公式な教育係は庵原忠胤(元政の父親)だ。たまたま、同じ屋根の下に住んでいるから、オレが代行しているに過ぎない。

ただの居候が名門今川一門の儀式に参加できるわけもなく、飛車丸の配慮で今川館の一室で静かに儀式が終わるのを待っていた。


そして、実はもう一人居る。鵜殿家に嫁入りが決定している直姫様(旧名次郎法師)だ。


「本日は口ぞえありがとうございます」


少々他人行儀(正真正銘他人だが)に直姫様が頭を下げる。婚姻が決まっているとはいえ、外様の井伊家の人間がこの儀に参加する事はできなかったが、飛車丸の許可をもらい当日は今川館で待つ事を許された。


「何、お安い御用です。式が終わればこちらに来ます。祝ってやってください」

「はい」


部屋に沈黙が落ちる。まあ、面識も挨拶程度しかないからね。

というわけで、雑談交じりに直姫様の生い立ちを聞く。

聞いて思うのだが、まあ人生若いのに波乱万丈である。

元々、井伊家の親族の娘として生まれた直姫に兄弟はなく、当初井伊本家の傍流男子を婿入りさせる予定だった。その相手こそ、現井伊家当主の井伊直親いいなおちかである。

問題は、前にも話したが直親の父親(井伊直満)が他家と内通した事により粛清。疑惑の目を向けられ遠江にいられなくなった直親は、信濃へと避難する事になった事だ。

まだ結婚もしていなかったので、罪にはならなかったものの当然婿入り話はお流れ。許婚であった外聞から、直姫も寺に入り俗世と断ち切ることで疑惑の目をそらすことと成った。こうして、次郎法師となった。

その後、井伊直親は井伊家に戻ってくるのだが、避難先の信濃で結婚しており、直姫との縁談は破棄されたままになり、現在に至る。

……直訳すると、捨てた許婚をハニトラ要員にして他家に嫁入りさせたのだ。恐るべし井伊直親。


「行き遅れの私なぞが、今川家の一門に嫁入りなど……」


視線を下げて不安そうにつぶやく。

短刀片手に直親に突撃してもよさそうな内容だけど、本人の価値観ではそういうものなの?まあ、女性の権威が低い時代だとは思うけど。


「そんな事を思う暇などありませんよ」


オレの言葉に、下げていた視線を上げる。


「新七郎殿は今後西遠江の所領を預かる身です。当然、西の豪族井伊家との連携は必要不可欠となります」


こういう時は、下手に慰めたところで意味がないのは、ハウツー本にも載っている内容である。親代わりというなら、親代わりらしく振舞ってあげよう。


「それに、はっきり言いますがね。西遠江が……井伊家がこのまま安泰なんてありえませんよ?」

「それはどういう事です?」


オレの言葉に、不安とは別の表情を浮かべて直姫が聞いてくる。


「松平家が三河を平定すれば、次に狙うのはどこか?西の織田家とは同盟を結んでいる。当然、その矛先は東の遠江に向く。そして井伊谷は三河との国境線。このたびの戦いにおいて疲弊した遠江に、三河を止める力はありません」

「……以前、新七郎様が言っておられました。十英殿は井伊家を松平家に取り込ませる気だと」


お、覚えていたか。

口元に笑みを浮かべつつ、直姫を見る。


「左様。となれば、井伊家のご実家とは敵同士となる」

「ならば、なおのこと敵となる井伊家の女を娶れば新七郎様にいらぬ嫌疑が……」

「それだけか?」


直姫の言葉を途中で切る。

驚いたようにこちらを見る直姫。すぐに視線をはずし思考にふけるように、目を伏せる。


「……」

「……」


***************


ああ、恐ろしい。

直姫は笑みを浮かべたままこちらを見る僧に、背筋を凍らせた。

夫となる人の師であり、愚痴とも相談ともつかない不安を話したところ、その話が明らかに自分のような、一豪族の娘にするような内容ではなくなってきた。

他家に嫁ぐ女の判断として、自分の考えに間違いはない。

だが、この人はそれでは済まぬといっている。


敵となる家の女。それだけではない?

私が嫁ぐ事で、裏切り者の妻を持つ新七郎様の立場が悪くなる。それに対抗するには、遠江に攻め込む松平家に、誰が見ても分かるほどの戦果を上げる必要がある。

無理をすることとなり、それは新七郎様の身を危険にさらす。

それを避けるなら、自分は実家に帰るべきだ。

普通に考えればだ。だが、それだけではない?

そうだ、十英殿は言った「井伊家を松平家に取り込ませる」。そう、裏切らせるのは十英殿の策の一つ。その理由は?前に新七郎様が言っていた「松平家をも飲み込む」とは。


十英殿は言った。「疲弊した遠江に……」は井伊家だけの事ではない。遠江の豪族だ。そして、今回新七郎様に与えられる土地は、旧天野家の領土。疲弊した遠江の地だ。

井伊家と同じように新七郎様の鵜殿家も松平家へ取り込ませる?無理だ。鵜殿家は松平家に滅ぼされた元三河の家。さらに、今回の領土を手に入れる際に、今川家重臣朝比奈家より手勢を迎え入れている。今川家を裏切る事なんてできるわけがない。


「いいですか。策というものは、状況の変化のたびに手を打つのではありません。変化に対応できる手を打つべきなのです」


混乱する耳に、こともなげな十英殿の言葉が入る。

その言葉に息を呑む。十英殿は言った。井伊家が今川家の敵に回ると。そして、それで終わりではない。井伊家を再び取り込み返す。それも松平家ごと飲み込む。

ならば、その為に必要なのは、井伊家と鵜殿家の血みどろの戦いではない。

自分の立場は、両家との繋がりを保つ事。どのような汚名や中傷を受けようとも……


「いかなる事があろうとも、夫を支える覚悟はできております」

「……それは重畳」


私の返事に、しばし沈黙した十英殿はにこりと笑って、私から視線をはずすと出されていた白湯を口に運ぶ。

合格をもらえたのだろうか。とりあえず、小さく安堵の息を吐くと、自分も白湯に手を伸ばし、ある事に気が付く。


……この話は、鵜殿家と井伊家だけの話ではない!?

これはそのまま、今川家と松平家の関係になる。今川家に当たるのは鵜殿家。松平家に当たるのは井伊家。では私の立場は?

今川家の正室には関係はない。でも、松平家正室は今川家の築山殿(瀬名の方)。そして、その駿府から三河への人質交換を取り仕切ったのが、目の前にいる十英承豊殿。その関係と立場が私と同じという事は…


沈黙が落ちた室内で、口につけた白湯に、まったく温かさを感じなかった。


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