46 手始めの終わり
永禄五年六月
駿府の今川館より軍令が発せられた。
その目的は、遠江での離反者の討伐。
今川館の評定の間では、武装した鎧武者が勢揃いしている。上座に座る今川氏真も当然鎧兜の武者姿だ。
……オレだけ、法衣姿の非武装状態である。いや、ほかにも居るけどね、館の小者とかお茶汲み坊主とか。
次々と準備を終えた今川家家臣達が、自軍の兵をまとめた報告を持ってやってくる。
それを取りまとめていた奏者の三浦正俊が、さらさらと書状にまとめて口を開く。
「殿。総勢2500。揃いました」
「遠江からの報告は?」
「朝比奈様より、掛川で兵1500をまとめ、いつでも合流できるとのことです。さらに、東遠江の国人衆からの兵も集まっており、総勢で3000ほどになると」
「よし。二日後には掛川城に入る。承豊。三河は動かぬのだな」
「はっ。遠江と松平家の間には反松平家の勢力があります。先の援軍により、反松平家を抜けて裏を突く事は難しいでしょう」
「よし。犬居城の後は、曳馬城だ。豪族達に連絡を取り圧力をかけよ。一刻とて遅れることは許さぬとな」
氏真の言葉に、命令を受けた家臣達が次々と出て行く。この時代の連絡はすべてマンパワーだ。遠江一国の豪族達への連絡は簡単な事ではない。三河の人質交換で今川軍に組み込まれた旧三河勢にとっては初の大仕事といえるだろう。
今回の出兵は、先の三河救援のような駿河だけの兵で解決する話ではない。あくまでも、これは遠江の軍勢による遠江の離反者討伐である。
そのため、今回の出兵に先立ち、信虎による遠江での勢力確立についての策謀と、その発覚による信虎捕縛が告知されている。
今回の出兵の理由が明白になった事で、遠江の豪族が離反者を擁護する動きはなかった。先の一方的とも言える強い内容の手紙の理由が、最後の慈悲であったと理解したのだ。
両者の戦力差は圧倒的で、勝敗の決まったような戦いに、彼らが協力を惜しむ理由もなかった。まあ、それで負けた桶狭間という戦いもあったが、アレが続いたらそれこそ今川家は運が悪いというレベルじゃないな。
この合戦によって得られるものは、今川家にとっても大きい。遠江の離反者を討伐する正統性、遠江の豪族が従ったという実績。それはすなわち、今川家による遠江支配を確認する事になる。
その実績を積むための最初の目標は犬居城。川を挟むことなく地の利の半分を失っている城だ。そして、初戦に勝つ事で、遠江の天秤はさらにこちらに傾く。そうなれば、日和見している者達も今川家に着くだろう。
救いの手がない離反者にしてみれば、八方塞がりもいいところだ。
一通り指示を出し終えると、氏真は立ち上がり、小姓の用意した朱塗りの杯を掲げ、重臣達と戦勝祈願の儀式を行う。
「エイエイ」
「「「オー!!」」」
氏真が杯を持ち上げ声を上げると、家臣達も呼応して声を合わせて鬨の声を上げる。そして、杯を飲み干すと次々に部屋を出て行く。
もちろん、オレはお留守番だ。戦闘能力などないからな。また僧なので、戦勝祈願の杯も酒ではなく水である。
出て行く彼らを見送っていると、最後に出て行こうとしていた飛車丸が、オレの肩に手を置いて耳元に顔を近づける。
そして、小さな声で言った。
「豊。気負うなよ」
「……」
それが何を言っているのか察して、オレは表情を変えずに浅く頭を下げた。飛車丸はそのまま、甲冑を鳴らしながら部屋を出て行く。
それ自体はたいした話ではない。親交厚い友人に個人的に話をしただけだ。なにせ、オレは今回の問題にはノータッチであるというスタイルだ。だから、一緒にいる近習達にも主君の行動を不審に思うような事はない。
全員が出て行き、ガランとした部屋で、ゆっくりと下げていた頭を上げる。評定の間の最奥の壁に掲げられている今川家の旗印『今川二つ引き』を見て唇をゆがめて苦笑する。
ひどい奴だ。せっかく、気を使わないように隠していたというのに、あっさりと見抜きやがった。
オレの心の中にあった一つの事実。
オレは、これから人を殺すのだ。
刃でもなく矢弾でもなく、舌と策によって今回の騒動を起こした。その終局の合戦。殺し合いだ。人が死に血が流れる。それは、オレが、オレの意思によって起こした事だ。手を下しこそしていないが、これから流れる血はオレによって流される血だ。
コレから死ぬのは、オレによってもたらされる死だ。
それは敵も味方も関係ない。その事実をオレは心の奥に押し込めていた。
それを一瞬で見抜きやがって。
とりあえず、出陣の邪魔にならないように、騒ぎが収まったころあいを見計らって、館を出る。
今川館の出口で、逆に館に入ってくる男が居る。庵原元政だ。父親の忠胤と共に、今回は留守居役として駿府に残るのである。まあ、信虎への警戒から捕縛に館の警護と長期で使い続けたので、このまま合戦にまで出動を命じるブラック勤務にならないよう配慮したのだろう。
甲冑姿で臨戦態勢の元政は、オレの顔を見ると一瞬顔をしかめた。
そして、そのままオレの前に出る。
「お疲れさん。今回はお前もいろいろがんばったな」
「ああ、問題はないとは思うが、後は頼むぞ」
「わかってる……なあ、豊」
「ん?」
「ありがとうな」
元政の言葉に、言葉を失う。
「今回の件がうまくいったのはお前のおかげだ。だからさ、そんな顔するな」
「……なあ、そんな変な顔をしていたか?」
別に朝起きたときに確認したが、おかしな所はなかった。寝癖とは縁のない生活もしている。自分の顔を触りながら元政に聞く。
すると、元政は苦笑しながらうなずく。
「ああ、初陣終えたばかりの新兵みたいな顔だ。まあ、オレだって初陣のときは褒められたモンじゃなかったけどな」
「……」
「そん時に、親父が教えてくれたんだ。「失ったものや奪ったものより、守ったものと手に入れたものを思え」ってな。少なくとも、お前はオレの感謝の気持ちって奴を“手に入れたんだ“」
「そういうことか?」
「そういうことさ」
オレの言葉に笑って返す元政。
「今度ウチの城に来いよ。嫁も息子も家族も歓迎するぜ」
「断る!」
オレの即答に元政は口をへの字に曲げる。
「なんでだよ」
「悟りが遠ざかりそうだからだ」
そういって頬を持ち上げて笑うオレを見た元政は、一瞬穏やかな表情をすると、子供の頃にやったように歯を見せて威嚇してみせて、そのまま部下を連れて館へと入っていった。
元政と分かれた後、信虎の館に戻る。
部屋の奥には、5つほどの文箱が置かれている。それは今回の騒動で、回収された信虎の密書だ。すでに事は決しており、特別な機密書類(今回無視している公方様の後ろ盾を保障する手紙)などを抜いたものの管理がオレの役目となっていた。
その一つ一つを手にとって中を検めていく。
そして、一つの事実を見つけた。
「兎追いしかの山か……」
オレの中で、ひとつの策が繋がった。
オレが飛車丸に言ったように、今回の事件は手始めに過ぎない。なにせ、目的について、何もしていないのだ。
今回の件は手始めだ。はじめの一歩に過ぎない。
甲斐の武田信玄を倒す為の第一歩だ。
深く笑みを浮かべる。だが、オレの口から漏れる言葉は、自虐とも取れる言葉だった。
「地獄に落ちるな。オレも……」
オレは知っている。
オレの手はまだまだ血に汚れなければならないという事実を。
誰よりも、その策の非道さを熟知するが故に。顔に笑みを深く刻む。




