43 師たる悟り
さて松平家に忠告するのは、本当についでだったので、本命の遠江井伊家へ向かう。
一応現段階で反今川派に加担している井伊直親に直接会うわけにもいかないので、そちらはスルーして、縁者という事で人質である新七郎に会いに行く。三河方面から来ているので、疑問を持たれることもない。
「師匠」
「息災か?」
「はい」
「では、これは小野様に」
そう言って差し出した書状を新七郎が懐に入れる。中は今川氏真からの書状で、井伊家当主井伊直親の罪を問わないという事が書かれている。
「井伊谷の状況は?」
「小野様はなかなかのやり手です。近隣の今川派勢力をよくまとめています」
当主の井伊直親が武田信虎の独立に参加しようとした以上、それに対抗するにはまとまる必要がある。それが、当主の決定に公然と異を唱える小野好道を中心とした対抗派閥となるわけだ。
当然、それは暴走しないように制御するというのも含まれる。
そしてそれは、オレ達の策が成った後も派閥として残る事になる。
「直親殿の様子は?」
「表向きは私にもきつく当たってきます。ですが、その間をもっていただいているのが……師匠。しばしお待ちください」
そこで、新七郎は口ごもる。そして意を決するように、近習に声をかける。
「直親様と表向きは親しくできない為、信用のおける者を間に入れて取りなしております」
「その者は信用できるのだな」
「もちろんです」
オレの問いに力強く答える新七郎。よほどの者なのだろう。井伊直親からも信頼されているとなれば、身内か誰かだろうか。
やがて一人の人が部屋に入ってくる。
見慣れた黒衣を着ている事から僧職のようだ。
「こちらは、次郎法師殿です」
「はじめまして。十英様。次郎法師です」
そう言って顔を上げると、女性だった。尼さんですか?
「直親様の身内の方で、その……ここでの暮らしでも親しくしております」
おいおい……。
弟子がハニートラップに引っかかったでござる。
いや、確かに女性関係の機微とかそういった教育はしなかったよ。
でもね、新七郎君。君、元服前だよね。今数えで十四歳。現代だと中学生だ。中学生(Boys be)か。
さて、どうしたものか。
「師匠」
「新七郎。わかっているのか?」
オレの言葉に、不安になる次郎法師を安心させるように其の手を握る新七郎。それを微笑ましいと見るには、どうやらオレはまだ修行が足りないようだ。
新七郎はオレの視線を正面から受け止めて、口を開く。
「松平家が遠江に来る事は間違いありません。その際、遠江の井伊家は最初の相手となります」
「そうだ」
とはいえ、ここで井伊家と今川家との関係を強化して、対松平家への盾としても意味がない。今回の騒動で勢力を減衰させた井伊家では、三河統一を果たした松平家を抑える事は不可能だ。時間稼ぎ以外の役目を全うできない。
そうであるとすれば、この話による利点は井伊家の血を残すことだけ。しかしそれは、今川家にとって利のない話だ。
その手では悪しなのだ。
「そして、井伊家には松平家を止める力はありません。師匠は井伊家を松平家に取り込ませる気でいると考えました」
「……」
「そして、師匠は……いつか松平家をも取り込もうと考えているのではありませんか?」
……我が師、太原雪斎様。
不肖の弟子をお許しください。今までの数々の無礼、真に申し訳ありませんでした。
分別も知らぬ分際で、よくもあれだけ好き勝手放題をしてしまったものだ。
当時のオレは、今の新七郎よりも若く、師匠は今のオレの倍くらいの年齢だったはずだ。
という事は、師匠が感じたのはオレ以上ということだ。
今、初めて実感した。
弟子の成長とは、ここまで心胆寒からしめるものなのだな。
よもや、子供だと思っていた弟子に、誰にも言っていなかったオレの心の中を見抜かれていようとは思ってもみなかった。
その事実と衝撃に、心に様々な感情が渦巻く。
今オレは何を感じている?喜びか、怒りか、誇りか、恥じか。すべての感情が、どろどろに入り混じっている。
濃淡渦巻く己の心を感じ、亡き師を思い出す。
ああ、師よ。
尊敬していました。畏怖していました。師のようになりたいと、追い続けていました。
深く笑みを刻む。
目の前にいる二人の顔から血の気が引き、しかし、何かに抗うようにこちらを見る。
その目に浮かぶ感情を読み取りながら、己の中に渦巻く感情を理解した。
ああ、そうか。
これが『愛』か。
ならば己がするべき事はただ一つだ。お前に師と呼ばせてしまった責任を取ろう。
尊敬される者であろう。畏怖される者であろう。
そして、追いつきたくなるほどの目標となろう。
「よかろう。では、その縁背負って見せろ」
「……はい!」
オレの言葉に、それでも力強く答える新七郎。その顔に、黒く渦巻く己の心の中からもう一つの感情を見つける。
喜べ我が弟子よ。お前の師は今一歩高みに上ったぞ。
そして、お喜びください亡き師よ。不詳の弟子は一歩あなたに近づきました。




