42 虎退治
呼ばれて今川館へ向う。
あくまでも親族の一人であり、固有の領地を持たない武田信虎にとって、今川館に呼び出される事は、よほどの事だ。
そして、その心当たりが信虎にあった。
先日館に来た十英承豊が言っていた、松平家の一色家襲名と三河守護の授与。当然、その話を決めるのは京都にいる足利公方だ。
そして、現在の今川家で京都まで出向ける人材が自分しかない。他の重臣達は、桶狭間の問題に対処する為に領土を長期で空ける事はできない。その点、固有の領土を持たない名門甲斐武田家の血を引く自分は適任であった。
心の中でほくそ笑む。準備は万事整っておる。この時期ならば問題ない。一色家襲名にあたり、今川家より将軍家へ献上品が送られるはずだ。それで遠江での勢力確立の後押しをしてもらう。
一色家襲名ではなく、信虎による遠江独立の支援という名目で、今川家名義での献上品を送る。それを足利公方が受け取れば、将軍家と今川家が自分の勢力確立に合意した事になる。
後から今川家が何か言ったところで、足利家のほうが地位は上だ。そして、上意を出した以上、将軍家も後には退けん。後は、足利家の顔を立てて三河をほどほどに攻めて、甲斐武田家の戦力回復を待てばよい。
そうすれば……
そこで駕籠が止まる。今川館に着いたのだ。
今川氏真の祖父として、名門武田家の一人として館の奥へ。小姓が案内するのは評定の間ではなく、今川家の奥の間。内々で重要な話をする場所だ。周囲への防諜防犯が配慮された場所だ。
そこで、信虎は今回の話の内容を確信する。
この話を尾張織田家が知れば、全力で阻止しようとするだろう。一年とかからず同盟が終わる。それほどの話だ。
供の者を下がらせ奥の間へ入る。
奥の間へ入ると、中にいるのは四人。岡部元信。庵原忠胤。関口氏広。家臣達は、自分が来た事で、会話をやめ深く頭を下げる。
その奥、上座に座るのは孫の今川氏真だけだ。いつもの笑みを浮かべたまま手招きをする。
「じいちゃん。また頼みごとをしたいんだ」
信虎は、好々爺といえる笑みを浮かべて、氏真の勧める座る上座へと向う。
しかし、心の中で嘆息していた。
無邪気過ぎる。
腹心とはいえ部下がいる公務でありながら、肉親を気安く呼ぶ態度。なにより陽気すぎるその姿が、信虎には軟弱に見えた。
血を血で洗う乱世にあって、非情非道こそが正道である。『皆で仲良く』などという綺麗事は、生きるという欲望の前には、吹けば飛ぶような価値しかない。
他人でしかない家臣達に言う事を聞かせるには、恐怖で縛る以外にない。当然だ。他者に望まぬ不利益を飲ませるには、力で従わせるしかないのだから。
故に、甘さこそは弱み。侮られる事が何よりも問題である事を、この孫はわかっていない。
どれほど早く駆けようとも、どれほど立派な角を持とうとも、鹿はどこまでいっても鹿でしかない。虎が鹿を食らう理に変わりはなく。鹿が虎を下す事はありえない。
どれだけ高貴な血筋であろうとも、どれだけ才能があろうとも、それでは食われる者でしかないのだ。
「なんじゃ。龍王丸。また、なんか頼み事か」
「そうなんだ。三河の問題だよ」
そういうと、一通の手紙を持って自分の横に座る。
自分の予想が当たり笑みが浮かびそうになる、それを引っ込める。十英の話はあくまでも内々のもの。初めて聞いた態を装い渡された手紙を開く。
氏真は甘えるようにワシのすぐ隣に座り、肩口から覗き込むように手紙を開くワシの手元を見る。
少しは、威厳というものを……そういいかけて、開けた手紙に目を見開いた。
そこには、人名を書き連ねてあるだけ。しかし、その名前はすべて自分が遠江で内応させた豪族達の名前だったのだ。その証拠とでも言わんばかりに、畳んだ手紙に挟んであった何通かの手紙が滑り落ちる。
それが何か見るまでもなかった。これらの豪族とのやり取りの手紙。
そこで、信虎は自分の立場を理解した。見れば頭を上げた今川家家臣の目がこちらを向いている。今川家の重臣三名。そのすべてが、武田信虎の派閥に属さぬものだ。
「(やられた!)」
周囲に居る者達は氏真側だ。声をあげてもどうしようもない。
公方様のお墨付きは館に隠してある。ここでひけらかす事すらできない。今あるのは、ワシが遠江の勢力を勝手にまとめたという事実だけ。
だが、館にさえ戻ればなんとでも……
腰の脇差に手を伸ばす。すぐ近くに当主今川氏真がいる。
彼を人質に取ればコイツ等も簡単には手をだせん。今川館から出る事も、遠江に逃げる事も出来るやもしれぬ。
しかし、脇差は抜けなかった。
柄頭に置かれた手が、信虎の抜刀を許さなかったのだ。
「悪いな。信虎」
耳元で囁くように言われたその言葉の主を見る。
いつの間にか自分の脇差の柄頭を押さえた手の持ち主。
最も近くに座り、陽気を振りまいていた無害であったはずの孫、見下していた主君。
今川家当主今川氏真の目が、信虎の瞳の奥を見ていた。
「あ……」
その目に、信虎は動きを止めた。いや、止めさせられた。
そして気が付いたのだ。なぜ自分は“敵となる男”にココまで近づく事を許してしまったのか。
自分が甲斐の当主だった時、自分の子にすらこんな真似は許さなかった。
無害だと思っていたから、無能だと思っていたから、敵にならぬと油断していたから。
無邪気であるが故に、警戒すらしなかった。
動きを止めた信虎の脇差を握っていた手と柄の間に、氏真の指が滑り込む。
どのような技か、それだけで信虎の手は脇差から離れた。そのまま自然ともいえる手つきで脇差を引き抜かれる。
その間も、一瞬たりとも氏真の目は信虎から離れなかったし、信虎もその目を無視する事はできなかった。
その目を知っていたから。
あの日、甲斐から放逐された時に、子が親を見る目。
一切の情を捨て、決断した目を見て信虎は悟った。
自分は再び敗北したのだと。
この時初めて信虎は、牙持つ獣を殺す理を持った角持つ獣を見た。




