37 駿河の妖怪館 ふたたび その1
永禄5年2月
飛車丸たち今川軍が、遠江から帰るのにあわせて、駿河に戻る。
新七郎は掛川城に残し、朝比奈様の準備ができしだい井伊家へ向う事になる。
そんなわけで、駿府の妖怪館その壱へ再度訪問である。
もちろん、その弐(信虎)はまだ主不在だ。まあ、だからこそ妖怪その壱への訪問につながる。
一応、信虎と親しくなる為に近づいたので、政敵である寿桂尼様と頻繁に会うと警戒される。その為に、こちら方面は飛車丸に任せて、オレ個人による接触は出来る限り避けていたのだ。
まあ、オレを信虎に紹介したのが何を隠そう寿桂尼様なので、それを想定しているというのが、お婆ちゃんが妖怪である由縁でもある。
「十英殿。息災ですか?」
「ははっ。おかげさまで」
身分差は決定的である、頭を下げて礼を言う。
「十英殿には礼を言わねばなりませんね」
「は?」
何を言い出すんだこの人。
「ひ孫を抱けるとは思っていませんでした」
「それはよろしゅうございました」
この時代の寿命というのはそれほど長いわけではない。実際、師匠である雪斎様よりも年上の寿桂尼様だ。いつ死んでもおかしくない年齢である。
そう思って寿桂尼様を見るが、オレを見る視線は刃だった。
「あなたのおかげです」
「……」
「龍王丸は優しい子です。この乱世にふさわしくない優しい子です。その龍王丸が北条家より嫁を迎えて8年。優しさゆえに配慮していたのでしょう」
先の早川殿の懐妊。それ以前から、飛車丸と早川殿の関係は良好だった。オレが呪うほどに仲は良かった。にもかかわらず8年間も子ができていない。
身体的な問題も考慮されて側室の話が出ていた事だろう。しかし、飛車丸はそれを断った。名門今川家の嫡男である以上、家系存続の重要性は理解しているはずだ。
そうしなかった理由。
「こたびの慶事を龍王丸の覚悟と取りました」
この婚姻が三国同盟の要であるが故に、三国同盟が破綻し義実家と敵対すれば、それは悲劇に繋がる。妻だけでも悲劇であるのに、子まで成せば、悲劇に“目を覆う”という前置詞が付くだろう。
北条家の姫である早川殿に近い寿桂尼様であるからこそ、その可能性も覚悟をしていた。人生の大半を戦国大名の妻として、戦国大名の母として過ごしてきた女傑である。
そんな中での今川家正室の懐妊の知らせ。
寿桂尼様は、そこからオレ達の行動を察知したのだ。
さすが今川家3代を支えた今川家の母親だ。
「たとえ、甲斐殿と私が逆の立場になったとしても、私はそれを嘆きはしませんでした。たとえそれで、龍王丸が苦しむ事になったとしても。それは、優しさゆえの弱さ」
「……」
「十英殿。そなたは龍王丸の憂いを取り払えるか?」
寿桂尼の表情は変わらず、部屋に落ちる空気が重くなる。空気の重さに負けるように、視線を下へと下げる。
「必要であるならば……」
「それで、龍王丸が苦しむとしても?」
プレッシャーが増すのを無視するように視線を合わせず。一度ゆっくり呼吸をして言葉を返す。
「必要であるならば、その責を負いましょう」
「なぜそこまでなさる?」
聞かれて、少し考える。
なぜ?なぜか…
口元に笑みを浮かべる。視線を上げて寿桂尼様を見る。向こうの表情は変わらず、そして視線も一切はずしていなかったのだろう。それを正面から見返して口を開いた。
「それを、彼が望みましたゆえに」
「……」
「……」
「……」
空気の重さは変わらないが、視線から敵意が消えた。
表情を変えずに相対するが、どうやら今日も帰りに厠を借りる事になりそうだ。
「して、此度はいかなるようじゃ?」
どうやら、この駿府の大妖怪からすれば、今までのやり取りは季節の挨拶程度の前口上だったらしい。
とはいえ、本題に入れたという事は合格をもらえたという事か。
「此度の騒動の後始末になります。今川家中がゆれる事は必定。出来る事なら穏便に済ませたく思います。寿桂尼様のお力があればそれも可能かと」
「コチラはそれでも良いでしょう。ですが、向こうはそれですみますか。おとなしく放っても獅子身中の虫にはなりませぬか?」
前にも言ったが、今川家中には二つの大きな派閥がある。寿桂尼率いる親北条派と、武田信虎の親武田派だ。今回、過激な行動を取った信虎の陰謀を叩き潰せば、当然信虎の失脚に繋がる。親族といえども許せる範囲を超えるからだ。そうなると、派閥の長が消える事になり、今川家中のパワーバランスが崩れる危険性が高い。
いっそ、全員が親北条派閥に塗りつぶしてくれるならまだいいのだが(それはそれで別の問題発生だが)、残念な事に人間には意地も遺恨もあるのだ。
暴走して無益な暴挙に出る可能性は十分にあった。
面倒くさい事この上ないが、コレも組織運営に必要な事である。
「その為に、氏真様には甲斐の義兄と仲良くしてもらう予定です」
「そして、その取り成しをその方が行うと」
「ハッ……」
「そうなると、さらに揺れるのう」
「左様。それゆえに、寿桂尼様にと」
要するに、北条派で取り込めるものはそのまま取り込む。そうでないものは、甲斐武田家と友好的な関係を求める飛車丸に擦り寄ってもらう構図を作ろうというわけだ。
そうすることで、北条派に入れない者達の逃げ道を作る。どの道、三国同盟があるので、今川家が敵対するは松平家であり、武田家と北条家と決別するのはまだ先だ。
自分達の立ち位置さえ確立されれば、派閥が崩壊しても彼らが破れかぶれになる事もなくなる。
問題は、親北条派閥だ。信虎失墜によって派閥が強化されるも、今川家当主である飛車丸が親武田派となれば、その間に軋轢が生まれる。最悪を想定すれば、北条派閥による下克上からの傀儡今川家の誕生という危険もある。
そこで、北条派閥の長である寿桂尼に話をつけて、武田家との友好路線は、今川家中の騒動を収める為だと理解してもらい、北条派閥との間に意思疎通を図る。
武田家とことを構える事を察した寿桂尼様なら、これが今川家の混乱を防ぐ為の方策であると理解してもらえるだろう。
「……あと10年。いえ、5年ともたないでしょう」
「は?」
「私の命です。年々、体が動かなくなってきました」
「それは……」
「故に、このお話承知しました」
「寿桂尼様」
「十英様。龍王丸の祖母として、今川家の女として、最後の願いでございます。この老い先短い命。一切の遠慮は要りません。骨の髄まで使い潰して下さいませ」
寿桂尼様は今川家の親北条派閥の長だ。こうして意思疎通を図ったとしても、当人が死んでしまえばそれまでである。ましてや、この話の内容は今川家の最重要の機密だ。オレと飛車丸だけが知る内容でもあり、庵原親子すら知らない、早川殿にも飛車丸は話していない内容だ。
その重要性を理解している寿桂尼様だからこそ、それを他人にもらしたりはしないだろう。
つまりは、彼女が亡くなるまでしか、押さえは利かないということだ。
その為に、自分を使いつぶせといっているのである。
「龍王丸をよろしくお願いいたします」
そう言うと、オレに願うように右手を床に手を付く。
親族の重鎮であり派閥の長の態度に、オレは笑って答える。
「寿桂尼様。初めてお会いした時にも、同じ事を言われましたね」
「……」
その言葉に、寿桂尼様のしわだらけの顔にもやさしい笑みが浮かぶ。
オレは床に手を突いて、深く頭を下げた。
「かしこまりましてございます」




