36 遠江の重臣
とりあえず、三河に出陣した今川軍によって、三河松平家の快進撃は止まったようだ。といっても、松平軍がさっさと退いたために、直接的対決が起こらなかっただけとも言える。
かといって今川軍も、三河を侵略する用意をしているわけではないので、しばらく松平家に睨みを効かせたら、帰るだけだ。まあ、そうなるように出陣してもらったんだけどな。
松平軍の反応だけが問題だったが、あのタケピーがこんな所で無理に決着をつけようとするわけがないと思っていたので規定路線である。
さて、そんな状況でオレがいるのは、遠江にある掛川城と呼ばれる城だ。
どこ?って思うかもしれないが、遠江の東部(つまり駿河側)にある城で、駿河にとって西からの侵攻を遠江で守る最終防衛ラインともいえる重要拠点である。
当然そんなところにいるのは、今川家でも重臣中の重臣。
今川家でも古参の一族朝比奈家の一人である朝比奈泰朝である。
ちなみに、オレと同年代ではあるが、彼は臨済寺に放り込まれる事もなく、幼い頃から遠江で一族でがんばっていた。なので、今川館でたまに会う程度の面識しかなかった。
「して、十英殿。用事というのは?」
「はっ。このたび殿のご命令により、鵜殿家の新七郎を遠江の井伊家に預ける事になりました。しかし、ご存知のとおり今川家中に三河鵜殿家の縁者は少なく、新七郎に付ける人手が足りません。そこで、朝比奈様を頼りに参りました」
そう。とてもとても重要な事なのだ。
人質として出すといっても、当人をポンッと放り込むわけではない。この時代の家には「格」と呼ばれるものがある。
たとえば、今川家に人質に出されたタケピーこと松平元康(当時竹千代)だって、助さんこと石川数正などの三河豪族の子弟が付いて回った。彼らは、人質を守ると同時に、人質を世話する役目を負っている。
鵜殿家は三河の豪族でしかないが、先代当主に今川家の娘が嫁いでおり、それを母とする新七郎や藤三郎は、系譜的に今川家当主今川氏真の甥にあたる。
権力のない実質人質とはいえ、名門今川家の親族が「一人で来た」なんて言われたら、送られた方が困るレベルの「格」だ。
とはいえ、それに見合う人がいない。
実家である鵜殿家は、そもそも松平家に攻め滅ぼされているし、オレに関しては、縁を持つような家がいない。今川本家を頼ろうにも、そもそも飛車丸が居ない。
そんなわけで、居候先である庵原家を頼ったわけだ。そこで紹介されたのが朝比奈泰朝である。
オレの学友でもあるフジちゃんこと庵原元政と朝比奈泰朝は同年代で、どちらも今川家重臣の子息という事から、戦場ではライバル関係でもあるらしい。もっとも、オレを紹介してもらえる程度には認め合ったライバルなのだろう。
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「(まったく、面倒な……)」
頭を下げる黒衣の僧と若者を見ながら、朝比奈泰朝は心の中で悪態を付いていた。
庵原元政の手紙を受け取り、面会こそしたが面倒事を押し付けられたとしか感じなかった。おそらく悪意もなく、深く考えないで元政はオレを紹介したのだと確信する。
桶狭間以降、遠江には不穏な空気が流れている。駿河では対岸の火事のように思っているかもしれないが、遠江の我々はそれを抑える為に日々頭を悩ませているのだ。
三河松平家の独立以降、三河に近い西遠江の豪族達との関係は、目に見えて悪くなっている。今回の今川家による三河出兵で、ようやく人心地付いたと思った矢先にコレだ。
今川家当主の一族につける供の者。当然、適当な者を連れて行かせるわけにはいかない。そして、そういった者達は当家においても必要とされる人材だ。
ましてや、その行く先は井伊家。朝比奈家が警戒している西遠江の不穏な火種の一つだ。
最悪の事態が起きれば、人質は殺されるし、その時はついていった供の者達も同じ末路をたどるだろう。そして、こちらに何の利益もないのだ。
「ご迷惑をおかけするのは重々承知。ですが、1年程で戻る予定でございます」
黒衣の僧が頭を上げて言う言葉に、ふと違和感を覚えた。
人質が一年で戻る。なぜ?
「駿府に戻れば、殿が烏帽子親となり、新七郎も鵜殿家の当主として元服する予定です」
今川家の一門として元服。当然その縁は朝比奈家にとって悪い話ではない。その利益のために誰かを出すというのなら、利がないではないか……
「そして元服と同時に、遠江に所領を賜る事になるでしょう」
朝比奈泰朝は、最初この発言に頷いた。たしかに今川一門になれば、所領を与えられる可能性は十分にある。桶狭間の損害を回復する為には、使える人材はいくらあっても足りない。才覚が足りなくても一門として……
……遠江?
そこで違和感が明確な疑問にかわる。
今川家当主が烏帽子親までする身内だ。譜代の重臣とはいえ朝比奈家の下につけるには、身分が大きすぎる。という事は、新しい領土を与えられるという事だ。
領土を与えるとしても、遠江に空いている場所など存在しない。
“今は“まだ。
様々な要因が組み合わさっていく。
なぜ、人質が一年だけなのだ。それは人質を出して保障する問題が、一年の間に解消するという事だ。
遠江に流れる不穏な空気。それは、反乱の気配だ。事が起これば、今川家はそれを討伐あるいは仕置きという形で制裁を加えるだろう。滅ぼされる家も出てくるはずだ。その領土は誰のものになる?当然手柄を立てた者に与えられる。
人質とは保障。問題が解決するまでの保障としての人質だ。今の遠江での問題は?その人質である事が手柄となる問題とは?
一つしかない。
泰朝が目を向ける先には、笑顔でこちらを見る黒衣の男。
「そうなれば、朝比奈様にはご恩を返す事もできましょう」
すべてが繋がる。
すでに遠江の不穏な空気を察知して、対処をはじめ、すでに保障を与える段階まできているという事だ。その相手が井伊家。不穏な空気の本命の一つじゃないか。そこの保障を出している状況という事は…
思い出した。
元政の馬鹿者め。この男がいつか言っていた『臨済寺の小坊主』か。なにが、「お前とは槍を競うだけですむが、あいつは何をするかわからん」だ。さっさと気が付け、お前だって雪斎様と会った事があるだろうに。
コイツは、競ったらダメな相手だ。
「わかりました。こちらで用意しましょう。準備が整うまで、どうぞゆるりと滞在ください」
もう、オレが手を出せる状況でない事は理解した。
ならばすることは決まっている。競ってダメなら利用するだけだ。
彼が後ろに居て、殿が烏帽子親になる遠江の鵜殿家か。そこと縁がつなげるなら、1年の危険な状況など問題にはならない利がある。
後は、自分のやるべき事をするだけだ。
兵に軍備に兵糧の準備。期間は一年以内。今から動けば先手を取れる。
元政よ。次の手柄はオレがもらうぞ。
全部、お前のせいなんだからな。




