34 忠臣にして内通者
「十英様。失礼いたします」
井伊家の館で有益な交渉を終え、帰り支度をしていると来客がやってきた。
当たり前だが、井伊谷に来たのはわずか数刻前で、しかも初滞在なので知人がいるはずもない。
そこへ入ってきたのは、やはり初めて見る顔だった。
「お初にお目にかかります。それがし、井伊家家老の小野道好と申します」
「ご丁寧に。拙僧は、十英承豊。今川家に身を寄せております」
そういって一礼をすると部屋に入ってくる。わざわざやって来るほどの話があるらしい。
「先ほどの話、隣室で聞かせていただきました」
「左様で」
「……」
「……」
何が言いたいのかわからず、沈黙していると。小野殿は床に手を突くと深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「は?」
初対面の人に土下座で礼を言われると、普通は混乱する。
とりあえず顔を上げてもらって聞くと、小野道好殿の話はこうだった。
井伊家の家老である小野道好も今回の騒動を察知しており、独自に調査を進めていたそうだ。そして、直親様をないがしろにし、親族たちが他国と通じている所まで掴んでいた。
彼がオレに感謝しているのは、すでに井伊家の内通の話は引き返せないところまできており、このままではなし崩し的に今川家から離反するか、あくまで反対して親族に殺されるか、今川家に密告して責任者として直親様が腹を切るかという状況だったのだそうだ。
「直親様の父である井伊直満様は、他国に内通しようとして今川義元様に粛清されました。それを進言したのが、それがしの父である小野政直でございます。父が直満様を、その子である直親様を、同じく子であるそれがしが引導を渡す。忸怩たるものがありましたが、十英様のおはからいによって、一条の光明が見えました」
小野家は代々井伊家に仕えた家老職。つまりは譜代の重臣だ。その当主を自分の発端で殺すというのは、戦国時代でも難しい問題である。一部を除くが、誰もが下克上をする外道というわけではないのだ。
「それはよかった。拙僧も遠江の混乱は避けたいと思っておりましたゆえ」
「では、僭越ながら一つお願いがございます」
お?
それまで、喜色満面で友好的な表情を浮かべていた小野道好殿の表情が一変する。
「十英様のお話、まことにもっとも。その内容に関し、井伊家が協力する事になんら不満はありません。しかし、その後の事にございます」
要するに、今回の遠江反乱に対して井伊家は今川家の指示に従い内通する。しかし、それはあくまでも当主今川氏真と十英承豊とでの話。対外的には、正真正銘井伊家は今川家に反抗した事実は残る。
安堵状により井伊直親の罪こそないが、その家臣が反乱をたくらんだ事実は変わらない。
当然、今川家は井伊家に対しある程度のケジメを取るように求めるだろう。
「事が十英様の指示通りになったとしても、その後の井伊家の騒動について、どうなるか想像するに難くありません」
なるほど。
薄く笑みを浮かべつつ、小野道好の言葉に納得する。
今川家に内通して情報を提供した結果、今川家が勝利したとしよう。その場合、井伊家は今川家に対して確固たる態度を示す必要がある。
つまりは、内通した家臣達の粛清。
これで今回の事件による責任を取ったと今川家に示す事になる。あくまでも、今川氏真が許したのは、今回のことを知らなかった井伊直親であり、ノリノリで信虎の言葉に乗った井伊家の人間ではない。
そして、それだけではない。これにより、井伊直親は井伊家を掌握する事ができる。自分を傀儡にした発言力を持つ者達を粛清し、さらには粛清対象を自分で決める事で、井伊家の家臣達は直親に助命を求める為に、傀儡だった当主に頭を下るだろう。
しかし、小野道好の危惧するのはその後だ。
粛清すれば人は減る。後任をどうするかも合わせて、井伊家の勢力を減退する。
「今川家の安堵状では信用いただけませぬか」
「事が家の大事にて・・・」
もしそこで、今川家氏真が井伊家の存在そのものに疑念を持ったら。そもそも、井伊家は今川義元時代から今川家の敵に加勢していた。現当主井伊直親の父は武田家に内通し粛清。その子も、逃げた先は武田家の支配する信濃。
すべての行動がつながり、疑惑が増せばどうなるか。
当主に親族を粛清させ、勢力を弱めた所で当主を粛清させれば、労なく井伊家を滅ぼせる。
笑みを深くする。ああ、強かに、卑屈になってでも生きることを求める。コレがお前か小野道好。
小野道好の求めるものは、自分の生存ではない。井伊家の存続。その保障。井伊家のためなら主君を密告してでも家を守る。悲壮の忠臣といえるだろう。それは、今ここでオレに話をしている状況からもうかがえる。
主君を介さない交渉。何かあれば、自分が腹を切れば済む話だ。
「よろしい。では、その保障を提供しよう」
「おお」
「ただし!」
オレからの譲歩を引き出した小野道好の言葉を、強い言葉でさえぎる。
「代価がいるぞ」
そして、オレは言葉を続ける。いいだろう。井伊家の存続。それを保障しよう。どのような形であろうとも、井伊家を残してやる。その為に動いてやろう。
「代価でございますか」
「そうだ」
「何を求められる」
「お前だ」
笑みを浮かべたまま、言い放つ。
正直どうしようかとも思っていたが、井伊直親がうまくやれる保証はなかった。その為に、別の豪族にも話を付けに行く予定だったのだが、その手間が省けた。
コイツは裏切らない。今川家をではなく、井伊家を裏切らない。当主や親族をどれだけ裏切ろうと、井伊家を裏切ることのない忠臣だ。
「お前の誇りを頂く。泥にまみれ、卑怯と罵られ、嘲笑を浴びせられる。それでも良いというなら保障しよう。井伊家をな」
「……」
オレの言葉に、小野は一度目をつぶる。そして歯を食いしばり拳を握り体に力を入れると、目を開ける。
覚悟を決めて目を開ける。
「委細よろしくお願いいたします」
承知したというようにうなずく。
主の為に泥をかぶる。それが出来るなら、利用価値はある。極上の保障を用意しても利用すべき価値が。




