10 瀬名の方
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ありがとうございます。
駿府に帰ってきたが、飛車丸は不在だった。
あいにく臨済寺に逃げたわけではなく、駿河の治安維持のために兵を出して駆け回っているらしい。
留守役の三浦正俊様に、三河松平家が独立する可能性が高い事を告げる。
予想はしていたのだろうが、三浦様は少し渋い顔をした。今川家の未来に暗雲が立ち込める。そんな感想なのだろう。
ちなみに、三浦様とは面識があった。飛車丸が臨済寺に逃げた際、迎えに来るのがこの人だったからだ。後見人とも言える傅役の筆頭という役割なのだ。飛車丸の日々の言動を見るに苦労人である。多分今川家で一番オレと親しい関係だ。
さて、報告が済んだので、個人的な用件を終わらせよう。
その館には門番が二名。とりあえず、身分を名乗り朝比奈様から借りた小姓の口利きもあって中へ。
ココは、現当主今川氏真の妹である瀬名の方の館である。
問題は、瀬名の方は松平元康の正室であり、現在今川家と嫁ぎ先は絶賛関係悪化の最中である点だ。静かな理由は言わずもがなだ。二人の門番も、配下ではなく監視役のようだ。
しばらく待たされて、奥の間に通される。
「お初にお目にかかります。十英 承豊と申します」
「ご丁寧に。ココに来る者もめっきり減りましたので」
「で、ありますか」
瀬名の方と対面。
なんというか、薄幸の美女って感じだ。タケピーめ。地獄に落ちろ。
そんなオレのネガティブな内心を察知したのか、瀬名の方は目を細め口を結ぶ。
「承豊様」
そう言って、いきなり手を突いて頭を下げた。
もう一度言おう、この人は養女とはいえ公的には今川義元の娘となり、現当主今川氏真の妹という立場。つまり、名門今川家のロイヤルファミリーの一員だ。
オレはノーマル庶民。ただのお寺の坊主である。
「この身はどうなってもかまいません。どうか、どうか竹千代と亀姫の身だけは、お救いできないでしょうか?」
「は?」
いやいやいやいや。待て待て待て。なに言ってんだこの人。
「承豊様は氏真様と懇意であるとか。二人はまだ分別もつかぬ赤ん坊でございます、寺に入れる事を考えてはいただけないでしょうか」
「…あ~」
彼女の心情を理解して、眉間にしわを寄せると額を押さえる。
思いっきり誤解しているよ。悪いのは全部飛車丸だ。嫁さんといちゃいちゃする前に、兄妹のフォローをしろよ!!
……でも、そうか。三河に行った夫とは連絡もつかず、実家の今川家との関係だけが日に日に悪化していく。この時代、個人の罪は家族の罪だ。その不安は計り知れないだろう。
そんな折に、念仏あげるのがお仕事のお坊さん(初対面)が現れる。面識がない=情けをかける心配はない。
思考のネガティブスパイラルによって、バッドイベントが開始したと誤解するのも無理はない。
「面をおあげくだされ。誤解でございます」
「…」
「面をおあげください!ご子息に大事はございません!」
オレの強い言葉で、初めて顔を上げる瀬名の方。ちなみにその目は涙目だ。タケピーへかける情けが一段階減った。
「まず、氏真様が竹千代君をはじめ皆々様に害する事はありません」
というか、あの飛車丸からするとアウトオブ眼中です。
なお、飛車丸にかける情けは最初からゼロスタートで、これより下がる余地はない。
「現在、三河より駿府で質となっております方々の引渡しの話が出ております」
まあ、その話を持ってきたのはオレだけどな。
「まだ、話が実現するかは定かではありません。ですが、今すぐ強硬な手段をとるという話ではないことを伝えに来たのです。どうぞ心安らかに」
幸薄そうな女性だ。もうちょっと元気になってくれよって思うよ。
この世をはかなんで心労で病死とかされると、オレの計画が水泡に帰す。
「ただし、覚悟は必要でございます」
オレの言葉に、瀬名の方が困惑した目を向ける。
「三河に戻れたとしても、駿府との関係が改善するわけではありません。最後のくびきが外れたと矛先が駿府に向くのは必定」
「それは、私が。なんとしても元康様に・・・」
「なりません!!」
声を大にして、それをさえぎる。
「瀬名の方様は、松平家のご正室。竹千代君は松平家の嫡男でございます。考えなければならないのは、松平家の繁栄。それを第一と考えなさいませ」
今後、三河がごたついたら困るんだよ。
なにせ、今川家は国を半分にする方向で進んでいる。だが、もう半分は消えるわけじゃない。だから、三河にもう半分を掌握してもらいたいんだ。
その後で、松平家と今川家が組めば、三河遠江駿河の勢力となり、元の今川家の状態に戻るというわけだ。まあ、今は敵なんだが、永遠に敵対しなければならないわけではない。
そういう意味で、松平家もある程度復興してもらわなければならないわけだ。
「覚悟というのは。三河に向かうという事が、瀬名の方様は今川家の人ではなく、松平家の人となる事。その覚悟がないのであれば、三河に戻るのは竹千代君のみになさいませ」
「…」
まあ、残ってもらったら困るんだけどな。なにせ、今川家だった瀬名の方が三河に行くという事は、瀬名の方についていくお供の者は当然駿府の人間。三河の情報発信源としては王道の手だ。もちろん、将来的に三河と友好関係を結ぶ際には、妹を正室にもつ松平家当主は、今川家当主の義理の弟。松平家嫡男は甥に当たる。
身内が三河にいるという事は、将来の和平交渉において重要な窓口になるのだ。
そんなわけで、懐から和紙で包んだ一通の短冊を取り出す。
書かれているのは一通の和歌のはずだ。中は確認していないけど。
「?」
「先日、西方に行きました折、駿府にいた旧友に会いましてな。駿河に帰るついでに、何ぞ伝言はないかと聞いた所。奥方様にコレをと預かりました。差出人の名前を失念いたしましたが、お読みになればお分かりになりましょう」
岡崎城から帰る前に、タケピーに人質交換するなら、奥さんに何か伝言したほうがいいんじゃない。読み人知らずでいいなら届けてやるぞ、と伝えたところ、コレを渡された。
大事な事なので再度言うが、中は見ていない。
悟りから遠ざかりそうなので。
読んだ短冊を胸に当て、幸せな涙を流す女性の顔をマジマジと見るわけにも行かず。平伏して頭を下げると、そのまま部屋から退散した。
さすが戦国時代。地獄に落ちるべき奴が多すぎる。




