ハイドラルートに入りました
◇
「今から向かうのは、西南地区の市場です。エタール家の管轄で、主に宝飾品と魔法製品を扱っている区画です。この時間なら人が少ないですから、見て回るには最適ですよ」
工房見学を終えて、グラたちは屋敷で昼食を取ると、ハイドラと共に市場へと繰り出した。
「それは楽しみね!」
ハイドラに案内されている間、エーテルはずっとはしゃいでいた。先程までの興奮が冷め切らず、しかも今から行く市場は彼女が好むものばかりなので、致し方ないのだが。
「少しは落ち着け。人が少ないって言っても、無人なわけじゃない。はぐれたらどうするんだ?」
「大丈夫よ! 私、初めて来たところでも迷わないから!」
そんな彼女を窘めるグラだったが、エーテルは聞く耳を持たない。……はぐれるのと迷うのは別の問題だと思うんだが、その辺についてはどう思っているのか。
「一応、はぐれたときのために集合場所を決めておきましょうか」
そんな二人を見かねたハイドラがそう提案をしてきた。まあ、それが無難だな。
「西南地区の中心には大きな噴水がありますから、万が一はぐれた場合にはそこに集まりましょう」
セルロには、町の中央と、各地区の中央に噴水がある。大きくて目立つので、待ち合わせとして使われることが多い。初めて来たとしても、見つけるのは容易だろう。
「了解」
「はーい!」
そうして彼らは市場へと向かうのだった。
◇
……数十分後。
「……早速はぐれたな」
「はい……」
市場の真ん中にて。グラとハイドラは、揃って溜息を吐いていた。……市場に着いた途端、エーテルは様々な屋台に目を輝かせて、一人で勝手に突き進んでしまったのだ。今の時間は人が少ないが、それでも少し先が見通せなくなるくらいには人がいるので、簡単に見失ってしまう。
「ま、先に注意したのに聞かないあいつが悪い。放っておくか」
「よ、宜しいんですか……? 昨日の私のような目に遭わないとも限りませんけど」
「あいつなら大丈夫だ。寧ろ、誘拐犯の心配をしたほうがいい」
ハイドラの言葉に、グラはセルロに来るまでの旅路を思い出していた。……街道に追い剥ぎが出没すると話したとき、エーテルは追い剥ぎを腹上死させるとのたまった。そんな彼女ならば、例え攫われてもうまくやり過ごせるだろう。そうでなくても、単身で王城まで侵入した猛者なのだから。隠形で姿を隠して逃げるくらいはお手の物だ。
「エーテル様のこと、信頼されているんですね」
「信頼とも少し違うが……まあ、いいか」
ハイドラの言葉を訂正しようとして、面倒になって止めるグラ。実際、彼女のそういうところだけは信頼している。危機感のなさは、実際に危機を潜り抜ける際には、物怖じしないという利点になる。彼女の魔法である隠形もそれに適しているし、男を手玉に取る技能も上々。心配する必要などないのだ。
「でしたら、市場を回りながら、待ち合わせ場所の噴水まで向かうというのは如何ですか?」
「そうだな、それがいい」
「はいっ!」
というわけで、いつの間にかグラとハイドラがデートっぽい感じになっていたのだった。
「あ、ハイドラ様」
「調子はどうですか?」
「はい、お陰様で今日も順調です」
「それは良かったです」
市場を回るその途中。ハイドラは市場の商人たちから次々と声を掛けられていた。市場を運営する立場だから当然なのだが、それにしても多いような気がする。
「人気者だな」
「も、申し訳ありません……! 案内する立場でありながら、他事に気を取られるなど……」
「いや、気にしなくていい。それも貴族の役目って奴なんだろ?」
グラの相手が疎かになって縮こまるハイドラだが、彼は別にそんなことを気にしたりはしない。ただ、ハイドラの人気に驚いていただけなのだ。
「市場にはそれなりの頻度で顔を出していますから。商人の皆様とも長い付き合いですし」
「仕事熱心なんだな」
「い、いえ、これくらいは……嫁入り前の、穀潰しの身です。少しでも家に貢献しなくては」
グラに褒められて、謙遜しながら顔を赤く染めるハイドラ。……彼女の反応はまあいいとして、やはりグラも大分態度が柔和だな。普段、エーテルと接しているときとは大違いだ。ハイドラが清楚なお嬢様だから、だろうか。
「そんなことはございません。ハイドラ様はとても良くやっていらっしゃいます」
「……?」
そんな二人の間に、何者かの声が割り込んだ。彼らが振り返ると、そこにいたのはスーツ姿の老人だった。
「あら、ヴァレンタイン様じゃないですか」
「突然お声をお掛けしてしまって申し訳ございません、ハイドラ様」
恭しく礼をする老人は、ハイドラの知人のようだ。ハイドラが二人を互いに紹介する。
「彼はホルム侯爵家筆頭執事のヴァレンタイン・テレフタレーテ様です。そしてこちらはグラリアクト様。昨日、危ないところを助けてくださったんです」
「なるほど。恩人というわけですな」
ハイドラの説明に、ヴァレンタインはそう頷いた。……ホルム侯爵家は、セルロを実質的に仕切っている貴族であり、その中でも最大の家系だ。つまりは、この町のトップと言い換えてもいい。そこの筆頭執事ということは、相当な地位の者だと推測できる。
「それはそうとハイドラ様。―――例の件、考えて下さいましたか?」
「……っ!」
ヴァレンタインが急に話題を変え、そんなことを口にした。すると、ハイドラは顔を強張らせる―――が、それも一瞬で消え、元の笑顔に戻った。
「その件は父に一任していますから」
「左様にございますか。ですが、ハイドラ様のお気持ちも大切でございます故、どうか前向きに考えて頂きますと幸いでございます」
「はい……」
二人が話しているのは貴族が関係することなのか。グラはそう思って口を挟まなかったが、ハイドラの声がどことなく緊張を帯びていることから、少なくとも楽しい話題ではないことは察した。
「では、私はそろそろ失礼致します」
ヴァレンタインは然程長く引き留める気はなかったようで、すぐに去っていった。元々、偶然見かけたから声を掛けただけなのだ。本来の用事に戻ったのだろう。
「……」
「ハイドラ?」
「……! な、何か御用でしょうか、グラ様……?」
ヴァレンタインが去っても未だに険しい表情のハイドラに、グラはそっと声を掛けた。するとハイドラは驚いて飛び上がった。……余程、重要な話だったのだろうか?
「いや、呆けていたみたいだからな」
「も、申し訳ありません……! 案内の途中だというのに、私ったら……」
「いや、気にしないでいい。それよりも、行くか?」
「あ……は、はい! 参りましょう」
そうして二人は、市場巡りを再開させたのだった。




