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あの老人の情報が正確なら、リュディガーの父は篭城しているという。キルステンの裏切りにより、大多数の兵を失った結果なのかもしれない。
主君を護った兵らは、そのまま虚しく散ったのだろうか。祖国の豊かな土地は、たくさんの血を吸って穢れていく。
同じ大陸の国同士が、何故このようなことになったのか。ナハト公国は何を思い、ファールン公国を攻めると決めたのか。悪魔の国とはどういうことなのか――。
「おい、考え込んでいてわかる問題でもないだろう? それで、どうしたいのか答えろ」
フルーエティがそんなことを言う。リュディガーはかすかに残った屋根雪を眺めながらぼんやりと歩いた。得た情報で逆に混乱して、頭の整理が上手くできないとは情けない限りだ。
冬風が冷たく頬を撫でていく。その感覚もリュディガーには懐かしいものだった。
「どうって……父様を助けたい。今はそれが最優先だ」
それだけをやっと答えた。
フルーエティとその配下の悪魔たちの力があれば、一国に匹敵する以上の力になる。父が篭城する場所が敵の軍勢に囲まれていたとしても、難なく近づくことができるだろう。救えると、そう思うのに、心のどこかにしこりがある。
救って、そして。
その後、また新たな国が攻めては来ないだろうか。それがメルクーア公国であったなら、母はどうするのだろう。
母のことはあれからずっと、意識して考えないようにしてきた。考えても何も答えを出せないと思うからこその自己防衛であったのかもしれない。
こうして先を考えると動けなくなる。
「まずは父様を救い出して、それから宗主国の考えを知りたい」
つぶやくようにして、リュディガーはそう言った。フルーエティは一度嘆息する。
「そうか。ならばすぐにでも向かうとするか。リゴールたちも首を長くして待っているだろう」
覚悟を決めなければならない。
けれど、リュディガーの心の中には先ほどの老人の言葉が息づいていた。
ただ人が死んだだけだと。争いというのはそういうことだと、リュディガー自身も思うのだ。
それでも、救いたい人がいる以上はそれを避けることはできない。
こくりとうなずいたリュディガーの耳に突如喧騒が飛び込む。
何か揉め事が起こっているのだとして、戦時下ではそれも珍しいことではない。
関わってはいけない。目立つことは避けるべきだ。それはわかっているけれど――。
何故だか、どうしてもそこへ行かねばならないような気になった。それは、通り過ぎる人々があまりに見て見ぬ振りを決め込んでいたからだった。遠目には覗いている。けれど、積極的に関わろうとはしていない。自分に火の粉が降りかかるとでも言いたげに。
喧騒は、一軒の食堂から上がっていた。物々しく軍服を着込んだ三人の男が中から出てきた。
黒い軍服。返り血さえも凌駕する、絶対の黒。
リュディガーは捕虜とされる寸前だったあの時を思い出し、ゾクリと身を震わせたけれど、思えばあの時からこの地上ではほとんど時間が過ぎていないのだ。あの軍人たちはまだメルクーア公国で消えたリュディガーを探しているのかもしれない。
そうして、最後の一人と思わしき軍人が一人の女性の腕を乱暴につかんで食堂から引きずり出した。女性は驚くほどによく通る声をしていた。甲高く、軍人に対しても臆することなく言い放つ。
「あたしは、何も悪いことなんてしてないわ!」
それに対する軍人たちの声は低く、リュディガーにはぼそぼそとしか聞こえなかった。
「――何よ、それ! そんな勝手な言いがかりで殺されるなんてまっぴら!」
殺される。
そう彼女は叫んだ。
リュディガーが見上げると、フルーエティは嘆息してうなずいた。
「どうやら魔女狩りというヤツだな」
悪魔であるフルーエティには、リュディガーに聞こえない音も拾うことができたらしい。
「魔女狩り? 彼女が魔女だって?」
「いや、あれはただの人間だ」
フルーエティは冷静に感情を込めない声でつぶやく。リュディガーだけが焦っていた。
「本人だって言いがかりだと言っているのに」
「そうは言っても、潔白を証明することはできないだろう」
「そんな……!」
フルーエティには大したことではないのか、いつもと変わらずにただ立っている。リュディガーにしてみれば、罪もない女性が殺されようとしているのだ。見過ごしていいはずがない。
けれど、フルーエティは黒い目を細めて言う。
「父親を助けに向かうのだろう? あれは捨てておけ」
そのひと言に、リュディガーはカッと頭に血が上るのを感じた。
「捨てておけ? 殺されるとわかっていて見殺しにしろというのか?」
「そういうことになるな」
悪魔は冷淡にそう述べた。リュディガーはその発言を信じられない思いで受け止めた。
「目の前で殺されかかっている女性一人助けられなくて、それで父が助けられるはずがない!」
思わず叫んでいた。すると、フルーエティは呆れた様子だった。
その意味が、リュディガーにはすぐに飲み込めなかった。
「お前は強欲だな」
「何を……っ」
「目の前のすべてを救いたいと思う、それが強欲でないのだとしたらなんだ? あとは馬鹿か傲慢かのどちらかだな」
フルーエティは結局のところ、人間であるリュディガーとは感覚が違うのだ。どれだけ時間を共有しても、きっとそれは変わらない。
そんなことは仕方がないのかもしれない。彼は悪魔なのだから。
ただ――。
命を救い、護ってくれた。孤独を忘れるくらいそばにいてくれた。そんなフルーエティの言葉にリュディガーは裏切られたような気持ちになった。
「欲張りでも愚かでも、見過ごせないと思う自分の心には忠実でいるよ。私は人間だから」
その言葉が出た時、リュディガー自身も冷え冷えとした気持ちだった。フルーエティの顔は少しも変わらなかった。
リュディガーは彼に背を向けて駆け出す。抵抗を続ける女性の柔らかな亜麻色の髪が大きく揺れた。
「魔女には『契約の印』と呼ばれる、痛みを感じない箇所が体のどこかにあるという。お前の印はどこにある?」
軍人が下卑た口調で言った。女性はそれを振り払うようにして言い放つ。
「そんなものどこにもないわよ!」
その時になって初めて、リュディガーはその女性を正面から見た。亜麻色の短い前髪と長くうねった後ろ髪。それこそ簡素な薄い若草色のワンピースとケープといった姿であったけれど、その鮮烈な緑色の瞳は宝石のように眩しく煌いていた。
リュディガーは手袋をはめた右手の拳を、彼女を捕らえる軍人の頬に叩きつけた。軍人は構えていなかったのか、呆気ないほどに吹き飛んだ。
「……痛みを感じない? どうなんだろうな」
リュディガーの右手に『契約の印』はある。けれど、痛みはしっかりと伴う。人を殴った衝撃がじんわりと腕に伝わる。伝承などいい加減なものだ。
「こいつ……っ」
他の軍人たちが憤怒の形相でリュディガーを睨んだ。帯剣したサーベルの柄に手が伸びる。女性がハッと息を飲んだのがわかった。リュディガーは彼女の手を素早く取ると駆け出した。その背中に喚く声をすべて振りきるようにして、リュディガーは彼女と走る。
これが正しくない行いだと、フルーエティは否定するのか。