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「これは……ここは……っ」
皮肉なことに魔界での暮らしは、快適と言っていいほどには過ごしやすいものであった。
それでもリュディガーは、日の光を浴びた途端にえも言われぬ感情が込み上げてきた。郷愁など感じていないつもりが、本当はこんなにも地上に焦がれていたのかと、この時になって初めて気づいた。
じわりと滲む涙をフルーエティに見せないように瞬き、そうしてリュディガーはようやくフルーエティに顔を向けた。するとそこにいた彼は、いつもの研ぎ澄まされた美しさを持つ姿ではなかった。青味のある銀髪と紫色の瞳は黒く染まり、肌も幾分日に焼けたようにくすんで見えた。それでも十分に端整ではある。
「エティ、その姿は……?」
するとフルーエティはサラリと長い髪を払った。
「これか? 人に見えるように調節しただけだ」
よく見ると、着ている服もいつもの黒尽くめではない。焦げ茶色のコートに黒いセーター。あまりに庶民的なその装いは高位の悪魔とは思えない。
そこでリュディガーははた、と自分の服装にも目を留めた。リュディガーも控えめな若草色のコートに生成りのセーター、似たような格好である。違いはというと、リュディガーの右手には指先のない黒皮の手袋がはめられていた。それをまじまじと見つめると、フルーエティが言った。
「契約の印は人には見せない方がいいだろう」
悪魔と契約をする者。それは宗主国に定められた禁忌である。要らない面倒が起こるのを防ぐために隠しておくべきだ。
「それもそうだな」
リュディガーはほう、と息を吐いた。その熱が白く残る。
冬の寒ささえも懐かしくて、どこか浮き足立ってしまう自分を感じながら、リュディガーは気を引き締め直すのだった。
さくり、さくりと雪を踏んで歩く。そう遠くないところに町が見えた。海はないけれど山は見える。
「ここはナハト公国のどの辺りだ?」
「いきなり公都もなんだ、ファールン公国との国境近くの町『ラーゼン』の付近にしておいた。時間は、お前があの馬車に乗せられて俺と契約を交わした直後に戻っている」
国境近くの町ラーゼン。
リュディガーは公子として様々な教育を受けてきた。隣国の地理もある程度は理解している。戦が起こる前であったなら、ファールン公国と交易も盛んであった。それが今はどのような状態なのだろうか。この地を選んだフルーエティの着眼点は確かであるとリュディガーは思った。
敵国との国境付近なら、もっと物々しくても不思議はない。付近とはファールン公国の反対側なのかもしれなかった。
「さて、町に潜入するか?」
フルーエティがそう問う。今のフルーエティの姿にリュディガーは違和感しか覚えない。そのうちに見慣れるだろうか。
「でも戦争中だから、出入りは厳しく取り締まられているはずだ」
すると、フルーエティはクスリと笑った。
「だとしても、俺には関係のないことだ」
いくら人に外見を似せたところで、フルーエティは悪魔である。その力があれば外壁くらいは簡単に越えてしまえるのだろう。
「ああ、そうだったな」
リュディガーは思わず苦笑した。
フルーエティの力を使って、リュディガーは町の中へ難なく入り込むことができた。空間を抜けて出現した先は路地裏の建物の陰であった。薄暗く、すえたゴミの匂いがする。その代わり、人気はなかった。公子として育ったリュディガーには無縁の場所で、他国とはいえこのような環境に人が暮らすことを憂えた。
二人は顔を見合わせてその路地裏から慎重に抜け出す。明かりが見えると、ひっそりとした市井の様子が先に広がっていた。
大人たちは立ち話をするでもなく早足で通り過ぎ、子供の姿はなかった。大人も、女性が多かったように思う。できることならば戦況を聞き出したいと思うけれど、戦の最中では気軽に立ち話ができないのも仕方のないことなのだろう。
「さてと、どうしたものか……」
フルーエティが周囲に目を向けた。リュディガーも何か取っ掛かりはないかと鋭くなりがちな目を意識して和らげた。
「大通りに出れば何かわかるかもしれない」
大通りなら人も多い。人込みに紛れれば一人や二人、話のできる相手も見つかるだろうと思ったのだ。
その考えはあながち間違ってもいなかった。
往来にはたくさんの人がいた。馬車が行き交う道幅の端を歩いている。彼らが向かう先に二人もついていった。
そこは広場であった。平穏な時ならば子供を遊ばせることができるほどの小さな広場だ。その広場に立て札が立てられ、民衆はそれを見てはささやき合う。リュディガーたちもなんとかして人をかき分けながら高札場に近づいた。それを読む前に、リュディガーに気づいた老人が声をかけてきた。
「あんた、この国のモンじゃなかろう?」
髪の色や目の色、それとも雰囲気でそう感じ取ったのだろうか。ここで嘘をついてもぼろが出る。リュディガーは素直に答えた。
「ええ。たまたまここに居合わせただけです」
老人は、自らの白い髭を吹き飛ばすようにして嘆息した。
「そうか。よりによってこんな時にな」
「こんな時……ファールン公国とのことですか?」
「そうだよ。他に何があるって言うんだ」
その呆れたような声には脱力感が色濃くあった。腰も曲がり、老い先短い彼にとって、戦など馬鹿馬鹿しいものでしかないのだろう。
「私は遠方から旅をしてきました。両国間のことに詳しくはないのです。よろしければ今、戦況がどうなっているのかお教え願えませんか?」
リュディガーは、顔が強張らずにそれを言えたかどうか自信がなかった。老人は白い眉を跳ね上げる。
「どうなっているのかとは、のん気な若者だな。どうもこうも、我が国の勝利だよ。正義は我が国にある。悪魔の国なんぞに負けはせん」
『悪魔の国』というひと言。それは自分のせいではないのかとリュディガーは不安から体がふらついた。その背をフルーエティが軽く支える。
老人は、けれどとても悲しげな目をして続けた。
「――なんてな。正義も悪もなんもかんも、そんなモンは後づけだ。隣人がたくさん死んだ。殺したのはこの国のモンだ。けれど、宗主国はこの戦いをお止めにならん。ならば宗主国の意に背いているわけでもなかろうと思うのだが、それでは親が子を見殺しにするようなものじゃないか。惨いもんだ」
宗主国ファイルフェン皇国。それは大陸全土に浸透するファナティカ教の総本山でもある。唯一神である女神ロレを崇める信仰の地。
その昔、戦に明け暮れたこの大陸を憂えたロレは、そのひと際大きな国を宗主国とすることで諸国をまとめ上げ、争いを失くしたと伝えられている。大陸に残る多くの要塞はその名残であると。
そうして、女神ロレの代弁者たる宗主国の皇王は神に等しい。そんな罰当たりなことを言うのはこの国でこの老人ただ一人かもしれない。
もしそうだとしても、たった一人でもそう言ってくれたことがリュディガーにとって何よりの救いであった。じわり、と胸が熱くなる。
「そろそろ終戦ということですね?」
フルーエティが冷静な声で問う。老人はうなずいた。
「ああ。ファールン公フリードハイム卿が篭城している砦を残すのみらしいからな」
「……そうですか」
「彼の御方は悪魔どころか、高潔で慈悲深いと伝え聞く。本当に、惨いことだ」
こういう発言を非国民だと非難する連中がほとんどだ。思うのと口にするのでは意味合いが違ってくる。
それでもやはり、嬉しかった。
リュディガーはぺこりと頭を下げてこの老人の今後の無事を祈った。