*6
リュディガーが目を覚ましたのは、アケローン川のほとりではなかった。星を散りばめたような天蓋のついたベッドの上で意識を取り戻した。そこはフルーエティの屋敷の、いつも自分が寝起きする場所である。
ハッとして起き上がったリュディガーに、感情の読み取れない涼やかな声がかかる。
「ようやく起きたか」
フルーエティは、出会ったあの日のように壁からリュディガーを眺めていた。
「わ、私は……」
夢を見ていたのか。
自問して、それを打ち消す。手にはしっかりと、罪人の肉に食い込む氷の短剣の感触が残っているのだ。あれを夢とするにはあまりにも生々しい。
自分の両手を見つめて震えるリュディガーに、フルーエティは壁から体を浮かせながら言った。
「あの短剣は溶けることもなく裏切り者の胸に残り、嘆きの川に浸るヤツの責め苦となり続けるだろう。ヤツにあれを突き立てることができたのはお前にしては上出来だが、最後に気を失うようでは先が思い遣られるな」
「……」
苦しかった。
憎むということは容易ではない。
今も、魔界の凍てつく川に浸され、消えない苦しみを味わい続けるキルステンを憐れむ気持ちがないかと問われれば、皆無だとは言えない。その憐憫が憎しみを凌駕して赦しを与えてしまいそうにもなる。
それはリュディガーの心が弱いからだろうか。
憎しみに心が倦み疲れることを避けたかったのではないだろうか。
そんなふうにも思ってしまう。
「わかっているではないか」
フルーエティが呆れたようにそんなことを言った。
リュディガーはキッと壁際のフルーエティを睨む。それは幼い日と同じであったのかもしれない。
「私の心を読むな」
「このところは漏れ聞こえることもあまりなかったというのにな。成長しているのかしていないのか、よくわからんヤツだ」
主に対してもへつらうことをしない、不遜な悪魔だ。
窮地から救い出してくれた彼に感謝の念がないわけではないけれど、心を読まれることだけは我慢ならない。ただ、凄んでみたところでこの悪魔には通用しないのだ。
リュディガーは打って変わってしょんぼりと、シーツの上に落とした自らの拳に目を向けた。そうしてつぶやく。
「お前が言うように、私は頼りなく弱い子供のままなのかもしれない。けれど、いつまでもこうしているわけにはいかないんだ。そろそろ地上へ戻り、動き出したいと言ったら、お前はどう思う?」
すると、フルーエティはクスリと笑った。美しく気高い瞳がリュディガーをまっすぐに見据える。
「それはお前が決めること。俺はそれに従おう」
ちりちりと胸が痛んだ。
自分がなすべきこと。その重圧に自分は潰されずにいられるだろうか。
護りたい者を護り抜ける自分になれるだろうか。
そうして、リュディガーはかぶりを振る。
「考えていても始まらない。踏み出さなければ何も変わらないんだ……」
グッと右の拳を握り締める。その手の平にある『契約の印』。何も持たない自分が手に入れた、唯一の力――。
「わかった、覚悟を決めよう。私に力を貸してくれ」
「いいだろう」
そうして、リュディガーはベッドから抜け出し、しっかりと自分の足で立ち上がった。
フルーエティは食事を取れとリュディガーに言う。
「そうフラついているようでは話にならないからな」
食欲などはなかった。けれど、食べないという選択を許してくれる悪魔でもない。精神的に参っている主に血の滴る肉料理を振舞いかねない。そうは思ったけれど、屋敷の僕が運んできたのは胃に優しいスープだった。
リュディガーのためだけに用意された食堂。テーブルは自国の城にいた頃ほどに長くも大きくもない。正面に座るフルーエティが脚を組んでリュディガーを見守っていた。
リュディガーがスプーンを手にスープに口をつけると、フルーエティは問う。
「それで、具体的にはどうするつもりだ?」
こくり、とスープを飲み込むと、リュディガーはつぶやく。
「うん、まずは相手を知ることから始めたい」
「相手……敵国のことか?」
「ナハト公国へ行きたい。何故、我が国に攻め入ることになったのか、その理由を知ることはできないだろうか」
本来、宗主国の下にある公国が勝手な行いをすれば、罰せられるのはナハト公国の方である。それが、宗主国からの助けはなかった。すべてを承知した上で放置していると考えるべきだ。
だとするなら、それだけの理由があったはずなのだ。それを知りたいとリュディガーは思う。
「理由など知れば動きにくくなるだけかもしれないがな。特にお前は考えすぎる傾向がある。目の前の敵を薙ぎ払う、それだけのことでいいだろうに」
あの侵略がナハト公国なりにどうにもならない理由を抱えてのことだとしても、祖国が蹂躙されている以上は情けなどかけようもない。理由を知りたいと思うのは、そんな安っぽい動機ではないつもりだ。だからリュディガーははっきりと言った。
「そう単純なことではない。何故このような事態に陥ったのかを知り、突き止めなければまた同じことが起こるかもしれない。私はそれが心配なんだ」
リュディガーの言い分を、フルーエティなりに呑み込んだ様子だった。気だるげに嘆息する。
「そうか。ならばお前の気の済むようにするといい」
言葉は素っ気ないけれど、突き放すような鋭さはない。心配してくれてはいるのだろう。フルーエティにはそうしたところがあると、長いのだか短いのだかわからないつき合いの中で気づいた。
優しく、包み込むようなぬくもりをくれていたはずの母に捨てられ、目に映るもの触れるものがすべてではないと学んだのだ。
「ありがとう、エティ」
フルーエティはフン、と小さく笑った。
悪魔とは悪しき者。けれどそれは、触れてみて自分で判断すべきことである。
何を悪と呼ぶのか、それによるのだから。
休息をしっかりと取ったリュディガーは、フルーエティと共に屋敷の外の断崖に立った。リゴールたちはいない。けれど、フルーエティが呼べばいつでもどこであろうと馳せ参じる。
一時地上へ戻るだけの話なのだ。フルーエティがいればリュディガーの身に危険が迫ることはない。
それに、連れ去られる予定だったリュディガーと今の彼とでは年齢に大きな開きがある。ファールン公国公子だとは気づかれぬことだろう。顔を隠す必要もないのは楽なことだ。
「では、行くか」
「……今さらだけれど、どうやって?」
思えば、どうやってこの魔界に来たのかもよくわからないのだ。戻り方もまるで見当がつかない。
そんなリュディガーをフルーエティは笑う。
「どうやって? それはな――」
「!!」
ドン、と背中を強く押された。リュディガーの体はバランスを崩し、崖から投げ出される。けれど、その落下感を味わう暇もなく、フルーエティに手首をつかまれた。ふわりと降り立ち、地面に足が着いた時、リュディガーは硬く閉じていたまぶたを開いた。
「エティ! 悪戯も――……」
ほどほどにしてくれと言いかけて、リュディガーは口をつぐんだ。代わりに思わず息を飲む。
目に飛び込んできたのは、燦々と白く輝く冬の太陽。降り注ぐ光に照らされた大地は、魔界の赤黒いものではなく、ところどころが雪に覆われた懐かしい土色であった。