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*5

『リュディガー様はよい剣筋をされておりますな。さすがはフリードハイム家のご嫡男。先が楽しみにございます』


 剣術の稽古に励む幼いリュディガーに、壮年の武将はそんな言葉をかけてくれた。隣で父は苦笑していた。


『そう持ち上げるな。この子は素直すぎるのでな、間に受けてしまうではないか』

『おや、私は本心を申したまででございますよ、我が君』

『そうか。お前のように勇猛な武将にそう言ってもらえるのなら、息子の将来も少しは明るいな』


 二人はそう笑い合っていた。

 あの頃はその言葉の本当の意味などわからなかった。けれど、見込みがあるとキルステンが褒めてくれたことが嬉しかった。そこからいっそう稽古に励んだリュディガーは、やはり単純であったのかもしれない。


 あの頃の勇ましさは(かげ)り、しょぼくれた眼がリュディガーを捉える。青年となったリュディガーの正体など、彼に見抜けるはずもない。キルステンの現在の姿で、リュディガーは魔界と地上の時間のずれを計った。


 彼の姿が死の直前のものであるのだとしたら、自分が知る彼の姿とそう変わりはない。ナハト公国との戦いの中でキルステンは死んだのだろう。そうは思うのに、何かが引っかかる。


 その引っかかりに気づいた瞬間に、リュディガーは自分の手が小刻みに震えていることを知った。

 この魔界の門の手前である岸辺を訪れる死者は皆、罪人(・・)である。

 キルステンはどんな罪を犯したというのだろうか。


「キルステン」


 彼の名を呼びながら、リュディガーは歩み寄る。人間の男のようでありながらも、角と牙のある悪魔が一瞬怪訝そうな顔をした。罪人たちの管理者であるのだろう。その悪魔は、近づくリュディガーの背後にいるフルーエティたちに気づいて、とっさにひざまずいた。

 他の死者たちに混ざらず、キルステンだけがぼうっと立ち尽くしている。そんな彼に、リュディガーははっきりとした声で言った。


「私だ。このような姿では説得力もないかもしれぬが、ファールン公国公子リュディガー・フリードハイムだ」


 キルステンは虚ろだった目をカッと見開いた。眼前の成長したリュディガーの姿から、在りし日の面影を探している様子だった。そうして、それを確かに見つけた途端、髭に囲まれた唇がわなないた。


「リュ、リュディガー様……」


 死者である彼の精神は生前ほど鮮明ではないのだろう。リュディガーの不自然な成長になどこだわる様子もなかった。


「キルステン、お前は何故ここにいる? 父上はどうしているのだ?」


 ずっと、知ることを恐れていた。戦う父の末路――。


 フルーエティは望む時間にリュディガーを連れていくことができると言った。だからどんな戦況も手遅れにはならないはずなのに、それでも知ることは怖かった。

 けれど、今はそれを問わねばならないと覚悟を決めたのだ。彼の口から答えを聞こうと。


 キルステンは呻吟し、頭を抱えて後ずさった。その様子があまりに不吉で、リュディガーはざわつく心を静めるために自らの胸を押さえつけた。


「キルステン……」

「わ、私は……私は……っ」


 その後退を、そばにいた管理者の悪魔が背を押して止めた。押したというよりも突き飛ばしたと言った方が正しいのかもしれない。キルステンはバランスを崩して岸辺に両手と膝を突いた。四つん這いのその項垂れた首に、リュディガーは再び問う。


「何があったのだ? 教えてくれ」


 フルーエティたちは一切口を挟まずにその光景を見守っていた。管理者の悪魔が、口をつぐんで呻くばかりのキルステンを侮蔑のこもった金色の眼で見遣ると、それから唾棄するように言った。


「こいつはね、騎士としてあるまじき裏切りを犯したんでさ」

「え……」

「主君を売ったんでさ。敵をね、手引きして砦に招いて敵国に下ろうとしたんで。けどね、相手の武将にこういう裏切り者は生かしておけば今後の禍根になると言われて斬られちまったってわけで」


 誇り高き武将。その成れの果てが、このくたびれた罪人だというのだ。

 頭を抱えてヒィヒィと呻く。けれど、それは悔恨ではない。我が身の不運を嘆く声である。


「キルステン、勝ちの見えぬ戦はそれほどまでに恐ろしかったか? 主君を裏切るほどに……っ」


 リュディガーは、自分の声がかすれて上手く出ないことをもどかしく思った。昂る感情が声を奪う。


 何故だろうか。

 母やヴィーラントに裏切られた時よりも数段強い怒りを感じる。父の信頼を裏切り、父を破滅へと追いやったこの男の行為が(ゆる)し難い。

 彼を最後まで信じていた父を裏切ったのだ。キルステンの行いを受け入れることなど到底できない。


 こんなにも憎しみに胸を焦がしたことはない。悲しみはあっても、憎んだりはできなかった。

 けれど今は、赦せないと強く思う。


 拳を強く握り締めた。それを目の前のキルステンに叩きつけたいというのではない。そんなもので怒りが収まるはずもない。

 その時、リュディガーの背後からフルーエティが管理者の悪魔に言った。


「こいつは主君を裏切った(とが)により嘆きの川(コキュートス)へ送られるのだろう?」

「へい。氷に浸かって凍てつく寒さに苛まれながら永久に過ごすのが、裏切りに相応しい罰でさ」


 フルーエティはそうか、と静かに言った。そうして、二の句を告ぐ。


「こいつは俺の(あるじ)の肉親を裏切った。主にとっては特別に罪深い魂だ。嘆きの川(コキュートス)へ送る前に主に斬り刻ませてやりたい」


 リュディガーはフルーエティが言い出したことに瞠目した。

 青白い顔を恐怖で歪め、キルステンはヒッと声を上げる。


「フルーエティ様、このような薄汚い者にリュディガー様のお心が穢されるなど、耐え難いことです。我が槍で貫きましょう」


 そう言ったリゴールを押しのけるようにしてピュルサーが前に出る。


「いえ、俺の牙と爪で引き裂き、毒に犯しましょう」

「僕にやらせてください。僕の炎でじっくりと苦痛を与えながら焼き尽くします」


 マルティはぽうっと手の平に小さな火を灯した。その顔に、いつもの朗らかさはない。それどころか口元に残忍さを滲ませる。


 リュディガーにいつも優しく気さくに話しかけてくれるフルーエティの三将たち。けれど、彼らも悪魔である。皆に親しげに接するわけではない。

 それが彼らの性質ではないのだ。彼らはリュディガーがフルーエティの主であるからこそ、敬意を持って接してくれる。それを間違えてはいけない。彼らはためらいなくキルステンを(ほふ)るだろう。


 フルーエティはひとつ嘆息した。


「駄目だ。こいつはリュディガーの獲物だ」


 そうして、フルーエティは右手に冷気を集め、氷で短剣を作り出した。どんな名工の刃よりも鋭く、研ぎ澄まされた氷の刃に、リュディガーもゾッと背筋が寒くなった。

 フルーエティはそれをリュディガーに差し出し、残忍に笑う。


「気の済むようにやれ」

「っ……」


 憎しみは色濃くこの胸にあるというのに、それでも躊躇ったリュディガーを、フルーエティは嘲笑ったかのようだった。フルーエティはまっすぐにリュディガーを見据える。


「お前の父と祖国を裏切った男だ。お前は自分の感情を後に回して制裁を加える義務がある。違うか?」


 違わない。

 キルステンの行いのせいでたくさんの死者が出たことだろう。彼らは天門を潜り、ここへは訪れないかもしれないけれど、無残な死を遂げたはずなのだ。

 彼らの無念を、踏み躙られた祖国を思うなら、この刃をもって罰せねばならない。


 リュディガーはフルーエティの手から氷の短剣を受け取った。それは冷たくはあるけれど、リュディガー自身を苛むことはなかった。その刃を見つめると、リュディガーの迷いも消えて心が澄み渡るような気がした。


 キルステンはヒィヒィと嗄れた声を上げながら、尻餅をつく形で後ずさった。死者には涙も許されないらしい。ただ強張った顔が恐怖を物語る。

 短剣の切っ先を彼に向けると、何故だか憎しみよりも先に幼き頃の思い出が呼び覚まされた。

 猛々しくも優しく微笑む瞳を。父を護るその背中を――。


 けれど今は、それらを失った一人の罪人に過ぎない。彼に抱く情は、すべてと引き換えにするには薄っぺらだった。一時の情に流されない、強い自分になれとフルーエティは言うのだ。


 リュディガーは短剣を強く握り締め、キルステンの懐に飛び込んだ。生者の熱は感じられない。けれど、まるで生身の体であるかのような、短剣の切っ先が肉に沈む感覚だけが手の平に、確かに、伝わるのだった。

 

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