*4
リゴールはいつも、リュディガーを傷つけないように注意を払いつつ稽古をつけてくれた。父の家臣である剣術の師よりも優しいくらいだった。
「その返しでは隙ができます。振りが大きいですよ」
刃のない剣を薙いだリュディガーの背を、対峙していたリゴールが背後に回ってトンと叩く。
「……っ」
ギクリとして振り返ったリュディガーに、マルティがどこかのん気な声で問う。
「リュディガー様は幼年にして、フルーエティ様ご自身が望まれたとはいえ、契約を結べたんですから、魔法の才覚もおありだと思うんですよ。そっちを学ばれるおつもりはないんですか? 魔法なら僕も多少はご指南できるんですけどね」
マルティは炎と熱を、ピュルサーは水と毒を操ることを得手とする悪魔である。
フルーエティはというと、正直よくわからない。リュディガーが彼の力を目の当たりにしたのはただの一度だけ――。
魔界に迷い込んだ人の子であるリュディガーに、悪戯を仕掛けた悪魔がいた。その悪魔はリュディガーがフルーエティの主だとは知らなかったのだ。それでも、フルーエティは容赦なく制裁を与えた。
それは、あまりに壮絶な力だった。
萎むことのない業火、溶けない氷塊。顔色ひとつ変えずに相反するふたつを織り成す大悪魔。二色に照らされたフルーエティの整いすぎた顔が凄惨さを増す。けれど、同時にその光景はひどく美しいものにも感じられた。
魔界には絶対君主と二尊の魔王がおり、フルーエティはその次の『六柱』と呼ばれる階級の悪魔の一柱らしい。中将と言って、六柱中四番目に偉いのだと、その時マルティがわかりやすく教えてくれた。
魔法も覚えることができるのなら、覚えておいた方が今後のためにはなるのかもしれない。戦いに身を投じるのならば――。
そうは思うのに、それを進んで学ぼうとしないのは、この期に及んでいっそう人から離れていく我が身を感じてしまうからだ。
悪魔の主としてこの地で過ごし、人の戦に干渉しようとするリュディガーは、もはや人とは呼べない者であるのかもしれないというのに。
「リュディガー様のご事情は理解しているつもりですが、そう思い詰めて鍛錬されても苦しいだけです。どうですか、息抜きに少し遠出でもされませんか? ほら、この魔界には地上とはまた違った絶景もありましょう。いくらでもご案内致しますよ」
ピュルサーが気遣ってくれる。リュディガーの眉間に皺でも寄っていたのだろう。
「それならば、我が騎竜にお乗せしてどこまでもお連れしますとも」
リゴールもにこやかにそう言った。リュディガーはちらりとフルーエティを見遣る。フルーエティはあまり表情を浮かべずにうなずいた。
「それもいいだろう。お前にもそうした時間は必要だ」
リュディガーは、あまり魔界を探索してこなかった。ここが興味本位で踏み入ってはいけない場所だと理解している。本来ならば死後の魂だけが来るような場所なのだ。
それでもフルーエティは幼い主の気の済むように振舞わせた。何かを無理強いすることはなかった。
フルーエティ自身がリュディガーとの契約により、他の人間に召喚されることがないということから来る心のゆとりだろうか。
「ええと、あまり深部はおすすめできませんから……アケローン川にでも行きましょうか? 魔界の門がある入り口ですよ」
マルティの言葉にリュディガーは目を瞬かせた。
「ああ、なるほど。本来はそこから入るものなんだな」
リュディガーはフルーエティに連れられてきたので、門など潜っていない。フルーエティは整った眉を軽く持ち上げる。
「ただし、門を潜れるのは死者の魂だけだ。お前も死んだらそこから入ってこい」
笑える内容ではないはずが、リュディガーは気づけば笑っていた。それは自嘲であったのかもしれない。
「そうだね。天門を潜ることは諦めたから、そうするよ」
「え、えっと、じゃあ行きましょう行きましょう」
平然とするリュディガーに対し、フルーエティの三将たちの方が焦っていた。リゴールの騎竜ライムントが低く鳴いて翼を広げた。フルーエティはふわりとその場で浮かび上がる。それは呼吸をするように自然な動作に見えた。
もちろんリュディガーに飛行することなどできない。素直にライムントの背に乗せてもらう。ピュルサーとマルティまでもが乗り込むと、リゴールはさすがに嫌な顔をした。
「お前たちは自力で向かえ」
「ついでだ、ついで」
真顔で言うピュルサーに、リュディガーも苦笑した。
「頼むよ、リゴール」
リュディガーに言われ、リゴールは渋々手綱を引いた。逞しいライムントの翼が羽ばたくと、乾いた大気が砂を巻き上げる。ライムントは誇らしげにひと声鳴くと、崖を蹴って飛び上がった。その上空をフルーエティが優雅に飛ぶ。彼がどのようにして飛んでいるのかは、リュディガーにはよくわからなかったけれど、それらをひとつひとつ訊ねていてはきりがないと思う。
リュディガーの癖のない髪が風に弄られる。目に入らないように髪を払い、リュディガーは魔界の光景を竜の背から見下ろすのだった。
赤黒い、不毛の大地。それでいて、峻険な山や広大な森、麗しい水辺もある。薄暗く、蒼穹が恋しくはなるものの、これもまた形の違った美であるようにも思う。赤紫の入り混じる空の色を眺めながらリュディガーは到着を待った。
アケローン川は魔界の端。その渺茫たる川の向こう岸ははるか上空の飛竜の背からも見えない。
「さあ、降りますよ」
騎手のその声に呼応するようにライムントが鳴いた。そうしてゆるゆると旋回しながら降りていく。リュディガーを乗せているためにゆっくりと降下してくれているのだろう。ピュルサーとマルティだけなら放り出そうと死にはしないと乱暴に着地したのではないかと思われる。
川の此岸はどす黒い砂利の敷かれた川原であった。ライムントは皆を下ろすと再び舞い上がる。呼ばれるまでは自由に飛び回っているようだ。
優雅に降りた上級悪魔のフルーエティの登場に、場がざわつくかと思われたけれど、そんなことはなかった。陰鬱なその場所においては誰がいても同じことだ。数多の死者は悪魔たちに振り分けられ、列をなしていく。その姿は奴隷さながらであった。
物悲しさにリュディガーが眉根を寄せると、フルーエティの冷淡な声がかかった。
「ここへ来る者は罪人ばかりだ。情けなどいらん」
それでも、リュディガーはかぶりを振る。
「好んで罪人になった者ばかりではないはずだ。生きていく以上、仕方のないことだってある」
フルーエティは無言でそんなリュディガーを見下ろしていた。言いたいことはなんとなくわかる気がした。
そうしていると、彼岸から船に乗って死者が訪れた。渡し舟には一人のみすぼらしい服を着た悪魔が乗っている。枯れ草のような肌色をした老人の悪魔だ。その足もとの舟底に人間の死者が膝を抱えて座り込んでいる。その死者もまた、囚人が着るような簡素な服に裸足である。
どこへ連れられるのかをすでに理解しているらしく、洞のような眼を岸辺に向けたまま、悪魔に促されて立ち上がった。
その死者が降りると、船頭の悪魔は渡し舟を返して再び漕ぎ始めた。渡河せねばならない死者は数多いのかもしれない。
それは我が国の戦死者の魂だろうか、とリュディガーは胸がキリリと痛んだ。
その中の一人、ぽつりと頼りなげに揺れるその死者にリュディガーは見覚えがあった。まさかとは思った。間違いであればよいと。
顔半分を覆う褐色の髭、彫りの深い顔立ち。
屈強な騎士として生きたはずのその男は、父の側近であった。
「キルステン……」
呆然と男の名を呼ぶリュディガーに、キルステンは遠くから目を向けた。