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ワールドエンド・レメゲトン  作者: 五十鈴 りく


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終章:「ジュデッカ -Judecca-」

 消えた。

 それだけなのだ。

 ひとつの報われぬ魂がこの世から、人々の記憶から消えた。

 ただそれだけのこと――。


 フルーエティは一体の骸が転がる庭園から浮かび上がった。上空で魔法円を描き出し、魔界へと戻る。空で左胸に手を添えた。けれどそこにはもう、契約の印などないのはわかっている。


 地上に残していた配下の悪魔兵たちも魔界へと召還した。三将たちはすぐさま崖に佇むフルーエティにひざまずいた。そうして、おずおずとマルティが顔を上げる。


「あの、こんなことを申し上げるのもどうかと思うのですが……僕たちは何をしに地上に行ったのでしょう? どうしてだか、まるで思い出せないんです」

「お前もか」


 リゴールも驚いた様子でマルティを見た。ピュルサーも戸惑い顔である。

 フルーエティはかすかに眉根を寄せた。主君のそうした機微に、三将は緊張で顔を強張らせる。そのさらに下の悪魔兵は、顔も上げられずに崖下に控えるばかりだった。

 フルーエティは配下を睥睨し、嘆息する。


「もうよい。下がれ」


 その言葉の奥底を覗ける者はいなかった。




 フルーエティは配下の悪魔すべてを下げ、屋敷のそばの崖に佇む。魔界の風がフルーエティの銀髪をなびかせた。腹心の三将さえも、この時のフルーエティに近づくことはできなかった。言われるがままにその場を後にしたのだ。


 そうしてフルーエティは自らの手の平をじっと見つめ、それを拳に変え、胸に叩きつけた。そこには契約の印があったのだ。確かに、ここに。


 あの日。

 無垢で幼い、けれど波乱を引き寄せる予感のする人の子が、母の裏切りも知らずに信じて従っていた。フルーエティが地上にいたのは何故だったか、渦巻く戦いの気に引かれるようにして様子を見に向かっただけだ。


 利己的な大人たちと、背徳の裏側で寒さに震える子供。

 あの時、リュディガーに手を差し伸べたのは、生かしたいと少なからず感じたからだ。あれが死なねばならぬというのなら、先にあの母親が死ぬべきだ。裏切った子供の手で嬲り殺されればいい。


 無垢な子であろうとも、母の薄汚い裏切りに復讐心が湧くはずだ。それを助け、戦いの気を存分に浴びていられればそこそこ退屈はしない。悪魔らしい行いと言えるだろうと、そう軽く考えた。


 けれど、リュディガーはフルーエティの手を跳ね除け、母を憎まなかった。それくらいならば自らの死を受け入れると。

 何故そうまでするのか、フルーエティはもどかしかった。幼いリュディガーには人を憎むという感情が欠けていた。その心がなければ自分を護ることなどできぬというのに。


 だからこそ、フルーエティはリュディガーをほうっておけなくなったのだ。人を憎まぬ幼い子供を、彼自身に代わって護らねばならぬような気になった。

 リュディガーが納得するような理屈を語ってみたところで、事実フルーエティは幼く不遇なリュディガーを憐れんだだけなのだ。


 弱者を憐れむ――。

 それは悪魔として相応しいとは言えぬ感情かもしれない。それでも、そうして結んだ契約を、リュディガーは結果的に後悔しないでいてくれた。

 ただ、リュディガーが言ったように感謝されるようなことは何もない。結局のところ、護りきれなかったのだから。


 止めることができなかった。いつもならば手に取るようにわかったリュディガーの心が、あの時は不鮮明であった。それはリュディガーが強い心を持ち、決意をしたせいだ。フルーエティに心を読まれぬように意識していたのも間違いない。

 リュディガーを救いたいと、気が済むように手を打たせてやりたいと思ったその気持ちが、皮肉にもフルーエティの判断を鈍らせた。


 もう、憐れなあの魂は消えたのだ。

 フルーエティの記憶にもいつまで残っているのだろうか。段々と薄れて、そうしてフルーエティもリュディガーを忘れるのだろうか。この喪失感もいずれ和らいでしまうのか。


 最後まで護れもしないというのに、他者へ手を差し伸べようとするリュディガーを愚かだと言ったのは、自分も同じだからだ。護ることの難しさを知るからこその言葉だった。

 けれど、たった一人でさえも護れなかった自分は何だというのか――。


 その時、背後で気配がした。

 あまりに近く、それでいて振り返ることも憚られるような気が背中にヒシヒシと伝わる。


「人の子を飼うのは存外難しいものだろう?」


 嘆きに似た風の音に混ざり、崖の上の砂を踏み締める音がする。

 体中に痺れが走るようだった。いつもそうだ。

 美しく、恐ろしく、それでいて心を解かされるような――。

 この場でフルーエティは確信した。一度唇を噛み締めると、振り向くよりも先につぶやいた。


「……やはり、あなたが火種を撒いたのですね?」


 そうして振り返る。

 そこにはフルーエティにとって魔界の主君たる魔王がいた。この魔界に存在する二尊の魔王のうちの一尊、ヴァルビュートである。六柱悪魔の半数は彼の家臣である。プトレマイアもそうだ。


 地につくほどの長い黒髪を持ち、フルーエティよりもさらに背が高い。体を覆い尽くす外衣は豪奢な金糸の刺繍で縁取られ、金色に輝く瞳と作り物めいた顔立ちが人にあらざる者であると語っている。何より、その身にまとう空気が息をすることも困難にさせるのだ。

 魔王ヴァルビュートは不躾な家臣に微笑を見せた。他の者にはあまり見せない穏やかさである。


「ほんの暇つぶしにな」


 その暇つぶしにリュディガーは翻弄され、そうして命ばかりか存在をも散らしたのだ。


「これであの娘も消滅しましたが、私を罰しますか?」


 すると、ヴァルビュートはまたしても楽しげに笑った。


「何故だ?」

「っ……」

「魔王たる私が人を装い地上に降り、人の娘に子を孕ませた。その子に私が愛情とやらを持っていたとするなら、消滅する手助けをしたお前を罰するべきやもしれぬ」


 けれどな、とヴァルビュートは蒼い唇で言った。


「それは悪魔の情とは呼べぬものだな。私にあの娘を愛しいと思う心はない。ただの戯れに過ぎぬ。眺めていて楽しくはあったが、所詮は人の子。あの器では強大な魔力を内包し、そう長くも生きられなかっただろう。そんなモノより、私にとっては家臣のお前の方がよほど価値がある」


 ルイーズもまた、リュディガーと同じだ。親に捨てられた憐れな子供でしかない。

 心が暗澹と沈み込む。その心をヴァルビュートは覗き見たかのように微笑んだ。


「人の子の死に心を痛めるか。お前は堕天だからな。堕ちた今も憐れみ深い。いや、その愛着は天使よりもむしろ人に似ているな。そうして人に寄り添う性分はこの先も直らぬのか?」

「……」


 (そら)から堕ちたのは、嫌気が差したからだ。神は人に試練を与え、そうして突き放す。ほんのひとすくいの善良な魂しか愛さない。少しの(きず)すらも認めない。

 小さな罪を犯した者も愛しんではくれぬのだ。憐れな魂に天門は開かれない。

 救われるべきだと思える魂も、小さな罪で堕ちるのだ。その潔癖さが理解できない。だから、出奔した。


 そうした心をヴァルビュートは物珍しく思うのか、堕ちた自分を拾ったのだ。その瞬間から、フルーエティはフルーエティとなった。魔界は天界よりも自由だ。遠い昔のもとの名などもう忘れた。


 ヴァルビュートの力に満ちた手がフルーエティの背を撫でた。そこにある薄汚れた翼はいつしか仕舞い込むようになった。けれど、ヴァルビュートがそれを見せろと言うのだ。

 フルーエティはもう一人の主君の求めに、常に仕舞い込んでいた翼を広げた。ゆっくりと、飛び立つようにひとつ羽ばたく。開放感よりも羞恥を感じるのは、完全に黒にも染まりきれぬこの色のせいか。かといって白く戻ることはない。


 曖昧な灰色の羽根が舞う。ヴァルビュートはフルーエティの翼の一部に尖った爪を立てた。いたぶるような、慈しむような仕草だった。

 そうしてヴァルビュートは言った。


「では、お前の悲しみに免じて許可をやろう」

「それは……」

「大陸のひとつくらいお前にやるさ。あの子供の未来を許さなかった世界に、あの子供の墓標を立ててやれ」


 世界がリュディガーを拒絶した。

 その世界にリュディガーの生きた証を刻む。

 ヴァルビュートの言葉はフルーエティの心に甘美に響いた。


「確かに存在した証に。誰もが記憶の彼方に葬り去った子供の墓標を」


 リュディガーが命懸けで護った世界に。

 彼を忘れた世界に。


 護りたいと願った父親はリュディガーを忘れ、彼に注いだ愛情を本来いるはずのなかった別の子供に向け、違う家庭を築いている。彼が護った民はそんな公子が存在したことを知らない。


 墓標を。

 道連れを。


 あの憐れな魂が寂しく散る現実が正しいとは思わない。

 それならば、すべて共に滅べ。


「ではそのお言葉に甘えさせて頂きます」


 ひざまずくフルーエティに満足げな声が降る。


「ああ、気の済むようにしろ」


 その言葉を最後に、ヴァルビュートはつむじ風のようにかき消えた。自らの居城へと戻ったのだろう。フルーエティは翼をしまい込むと立ち上がる。体はどこか重く感じられた。


 そうしたやり取りを聞いていたのか、プトレマイアが入れ替わりに現れた。癖のない髪を乱し、蔑むような目をフルーエティに向ける。

 フルーエティは嘆息した。


「ルイーズのことか」


 ルイーズを消滅させる手助けをしたフルーエティを恨むのか。プトレマイアは瞳の中に憎悪の炎を浮かべている。けれど、そうではなかった。


「消えた存在のことなどいい」


 あれほど大切に護っていたくせに、そんなことを言う。


「ヴァルビュート様は何故お前にこれほど目をかけて……今度ばかりは見限られるものだと思ったのにな」


 ああ、とフルーエティは零した。

 プトレマイアはルイーズの中の主君の血を尊んだだけなのだ。ルイーズなど所詮はその媒体でしかなかった。

 やはり、あれもまた憐れな魂である。


「そうした話は今度だ。俺は忙しい」


 プトレマイアをあしらい、フルーエティは地上に向かった。三将はこれから起こり得ることをすでに予測するのか、待ち遠しげに離れてフルーエティの指示を待つ。


 護りたい者を護れたと。

 世界を救えたと消えゆく中で微笑んだリュディガー。

 けれど。


「お前がいないから」


 この世界がそれを許さなかったから。


「こんな世界は要らない」


 リュディガーという子供がいたことを忘れないために。


「お前が護った大陸(せかい)を滅ぼす。それがお前(あるじ)にとっての裏切りであるとしても」


 リュディガーを必要としなかった世界など存続しなくていい。

 あの悲しみを、あの苦しみを何ひとつ酌まない世界など許せない。


「お前がいないから――」


 いたら、止めただろう。

 悲しい顔をして。

 けれど、いないから。


 この空虚を何をもって埋めればいいというのか。

 人などもう憐れまない。愚かな人間など滅べ。



「――さあ、行くぞ。存分に暴れてこい」



 夕焼けの赤い光を背に、フルーエティは悪魔の軍勢に告げた。

 歓喜の声がマエスティティア大陸(かなしみのだいち)を埋め尽くした。


 マエスティティア暦六百十四年。

 それはひとつの大陸が滅んだ年である。



     【 THE END 】

 以上で完結です。お付き合い頂きありがとうございました。

 母に始まり母に終わる。そしてリュディガーは最後まで不安定で憎しみを抱いても堕ちきれない、ひたすら危うい子になりました。

 一応、書き初めからこの結末は予定していたのですが、変更せずに突っ走りました。ダークファンタジーなのでハッピーエンドはないと心構えをして下さっていた方も多いかもですね。


 「レメゲトン」は魔術書。悪魔の性質や使役方法が記されています。

 この物語は悪魔「フルーエティ」の性質を記したものというわけで。

 序章の「カイーナ」は肉親に対する裏切り者を指しています。終章の「ジュデッカ」は主に対する裏切り者という意味です。

 元ネタ悪魔はあってもそれに忠実には書いておりませんので、詳細は同じではありません。そこはご了承下さい。

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