*43
フルーエティはリュディガーが望んだ通り、過去の母の実家へ連れてきてくれた。以前訪れた時よりも少しだけ前の時代だ。とは言っても、精々が一年程度だろう。
花々の配置もそれほど変わってはいないけれど、白いアーチが記憶よりも白いように感じられた。
リュディガーは深く息を吸い、花の香を含んだ空気を肺いっぱいに満たす。そんな仕草をフルーエティは無言で眺めていた。
リュディガーはそれから一度、フルーエティと向き合う。
「なあ、エティ」
「なんだ?」
その返答にリュディガーは可笑しくなった。なんてことはない。彼はリュディガーが呼びかけると、いつもそう返す。
リュディガーが笑ったからか、フルーエティは釈然としない様子だった。その顔にリュディガーは柔らかく言う。
「いや、エティとこのやり取りをしたのは何度目だろうと思ってね」
幼いあの日から、呼べば応えてくれた。それがどれだけ恵まれたことだったのかと、今さらながらにして思ったのだ。
「お前は俺の主だ。応えるのは当然だろう」
「そうかな? 父様はキルステンに裏切られた。エティが当然だと思うことが、私には当然ではないよ。だから嬉しいんだ」
フルーエティは軽く眉根を寄せた。素直な言葉に、どう返せばいいのかわからないのだ。フルーエティにはそうしたところがある。
リュディガーはほんのりとあたたまった心で告げた。
「じゃあ、行ってくるよ。エティは手を出さないでくれ」
主の言葉だ。フルーエティは従ってくれるだろう。
向けた背中にフルーエティの視線を感じる。リュディガーは振り返らずに前だけを見据えた。
麗らかな花園には楽しげな笑い声が響いている。若い娘と落ち着いた淑女の声だ。
リュディガーは華やぐ空気の中、垣根の間から先を覗いた。
娘の艶やかな髪に母親が清楚な白い花を挿す。まるで天使か妖精のようだと母親は褒めそやし、娘はそれを当然と受け止めた。
純白のフリルと花弁に飾られた娘。幼さを残した、細すぎるほどの体つき。その肌のきめ細やかさ、若々しさは見る者を釘づけにする。宝石のごとく煌く瞳に淡い色をした睫毛が影を作り、すでに将来の開花を約束されている少女だった。
それは間違いなく幼き日の母である。
ルイーズは本当に母に生き写しだ。違いを探す方が難しい。
娘の母親――リュディガーにとっての祖母は、何かを言って立ち上がった。そうして、そのまま屋敷の方へと立ち去る。ここは貴族の邸宅の奥深くにある庭園なのだ。衛兵も屋敷の外へ配備されており、不審者の侵入など許さない、祖母にはその油断があったのだろう。
母は度々庭園で一人になった。そうしてルイーズの父親と出会うことになるのだろう。
そう、その邂逅はこの先に。確かに、起こる。
もう、相手が誰であるのかなど、どうだっていい。リュディガーはルイーズにしか見えぬ若い母の姿に戦慄に似たものを感じた。
垣根のそばでカサリと音を立てると、母がこちらに顔を向けた。
「誰?」
甘い声がした。年齢にそぐわない媚態を含む声。
リュディガーは垣根の影からそっと姿を現した。黒衣のリュディガーは母に不信感を与えるだろうと思った。
しかし、母は花のように可憐に微笑んだ。むしろリュディガーの方が気圧されてしまう。
「まあ、なんて綺麗な方なのかしら」
突然現れたリュディガーに対し、警戒の色がない。リュディガーの顔立ちに同じ血の匂いを感じたのだろうか。自分に似た者には無条件の好感があったのかもしれない。
「……ルーツィエ様ですね?」
母の名を呼び、そばまで歩み寄る。芝の上に座り込んでいた母は立ち上がった。
正面に立つと、母の背はリュディガーよりもずっと低かった。母をこんなふうに見下ろしていることが不思議でならない。
もう、二度と会うことはないと思っていた。それがこんな形で叶うとは皮肉なものだ。
「そうよ。あなたは?」
と、母は上目遣いで可愛らしく小首を傾げてみせた。自分の魅力を十分に理解している仕草だ。
「私はリュディガーと申します」
笑いかけることができなかった。今、笑っても悲しい顔にしかならない。
「リュディガー様ね。どうしてこちらに? 私に会いに来てくださったのかしら?」
冗談交じりの明るい声が華々しい庭園に相応しく響く。リュディガーは深くうなずいた。
「ええ、私はあなたに会いに来ました」
「何故かしら?」
期待を込めた眼差しがリュディガーを見上げる。
母がどんな言葉を望んでいるのか、すぐにわかった。けれど、それを与えてあげられるはずもない。
リュディガーは言った。
「謝りに来たのです」
「え?」
心臓が抉られるように痛んだ。悲しくないはずがない。いついかなる時も、彼女が何をしたとしても、彼女は間違いなくリュディガーの母親であった。
「護るなどと口にしておきながら、あなたを護りきれず、申し訳ありません。母様――」
外衣の下から現れた白刃に、母の瞳孔がキュッと狭まった。サーベルの切っ先が純白のドレスを貫く。赤く赤く、白を穢す血の色。
せめて苦しまぬようにと、心臓をひと思いに刺した。柔らかな少女の肉には抵抗らしき抵抗もなく、切っ先は深く沈む。
剣から滑り落ちる母の体を支えようとした。けれど、母の体はリュディガーの手をすり抜けたのだ。
「っ……」
母の髪に挿されていた白い花が散った。芝の上に投げ出された母の虚ろな目。染みてゆく血の臭気。
捨てられた時でさえ、母が死ねばいいとは思わなかった。母には無事でいてほしかった。こんな結末を望んだことは一度もない。
どうしようもなく胸が痛むのに、もう涙も流せぬのだ。リュディガーは剣を取り落とし、うっすらと、まるで亡霊のようになった自分の手を眺めた。
自分を産む前の母を殺めたのだ。自分の存在を自分で否定した。
ルイーズやプトレマイアもリュディガーの存在がある以上、この時代の母を手にかけることはないと思ったはずだ。だから、隙があるとしたらルイーズが産まれる前だけだった。
これで、同じようにルイーズの存在も消えるはずなのだ。
リュディガーはそっと振り返った。そこにはひどく厳しい顔をしたフルーエティが立つ。
青みがかった長い銀髪の、人とは違う美しさ。ただ、その表情がこの時ばかりは人間味を帯びているように感じられた。
「これではお前が存在しなかったことになる。魂が消滅してしまえば、死しても魔界の門すら潜れぬ。お前は――っ!」
こんなにも感情的にまくし立てるフルーエティは初めてだった。それがリュディガーには言いようもなく切ない。
幼いあの日、母だけでなく世界そのものから捨てられたような気持ちがしたリュディガーに、手を差し伸べて孤独を忘れるほどそばにいてくれた。
悪魔は悪しき者だと誰が言おうとも、リュディガーだけはそれを否定する。
フルーエティはリュディガーの心を常に護ってくれたのだから。
「すまない、エティ。こうでもしなければルイーズは止められないから」
消えゆく意識の中でそうささやいた。
「お前がそこまでする価値が、この世界にあるというのか!?」
心を読むフルーエティだから、リュディガーのこの策は看破されて止められる可能性があった。だから、リュディガーはフルーエティにそれを読まれぬよう、心を強く持った。母を説得するつもりだと、自分自身さえも騙すように唱えた。
事実、そうしたい気持ちの方が強かったのだ。けれど、顔を合わせてすぐにわかった。
母はやはり魔性なのだ。
どう足掻こうにもこの先の禍根となる。違う選択はできない。
だから、自らの命も母に返す。そうすることしかリュディガーにはできなかった。
「なあ、エティ」
もう、幻のような姿しか保てなかった。契約の印がある手の平もすでに見えない。
フルーエティは何も言わなかった。霞む視界の中、沈痛な表情を浮かべている気がした。
「私はエティに出会えて救われた。こうして最後に世界を救うことができた。私の心を救ってくれてありがとう――」
最期は微笑んで逝くことができた。
だったら、この生はそう悪いものではなかったのかもしれない。




