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あまりの夢見の悪さにじっとりと汗をかきながら、リュディガーは目を覚ました。浅く速い息遣いをフルーエティが傍らで見下ろしている。
父の部屋の寝台から起き上がると、リュディガーは細かく震える手を闇の中で見つめた。
「エティ、おぞましい夢を見たよ」
すると、フルーエティは闇で光る紫色の目を伏せた。リュディガーは暗闇に取り残されたような不安を感じる。その目が暗がりで再び浮き上がったかと思うと、かすかに揺れた。
「夢ではない」
「っ……」
「それは現実に起こったことだ。俺がお前に見せた。その方が手っ取り早いだろう」
震えは次第に大きくなる。フルーエティの目は、リュディガーを憐れむように見えた。
「あの男は死んだ。そして、ルイーズは砦を越えてここへ着実に近づいている。これは現実だ」
止められない。破滅の足音。
ルイーズの高笑いがこの場所まで響いてくるようだった。
あれだけの力があるのだから、フルーエティがするように時空を越えてここへ到達する可能性もある。そんなリュディガーの懸念に、フルーエティはかぶりを振った。
「いきなりここへ来るつもりはないようだ。お前が恐怖を感じながら時を過ごすのを想像して楽しんでいるのか、ゆるやかに侵略する方を選んだらしい。あまりに呆気ないようでは物足りぬのだろう」
「……母様は?」
あちらの方から侵略してきたということは、メルクーア公国を抜けたということだろう。その時、母との接触はあったのだろうか。
「今のところは無事だな。本当に興味がないらしい」
よいのか悪いのかよくわからないけれど、ルイーズの興味は今、リュディガーだけに向いているようだ。それでも、ルイーズが母と接触しなかったと聞いてほっとした自分がいた。ただ、その時胸に小さな棘が刺さりもした。
もし、母がルイーズと鉢合わせしたとして、何を思うのか。自ら子を捨てた過去を懺悔するだろうか。
その子が自分の夫を殺したとしても、母は心を動かさぬのだろう。
母はルイーズを捨てたことなど記憶の隅に追いやり、思い出しもしていない気がした。あの襲撃の時まで、母にそうした後ろ暗いものを、少なくともリュディガーが感じたことはなかったのだ。
母は結局のところ、罪の因果を自分以外のものに結びつける。
母の心はいつも、故郷の花園にあるのかもしれない。
美しいもの、幸せな時だけしか見えないのだ。母はそうして自分を護っている。その花園には子供のリュディガーやルイーズでさえ存在を許されぬのだ。
「なあ、エティ」
フルーエティの瞳を見据え、リュディガーははっきりと言った。
「この大陸は滅ぶのか?」
ルイーズを止める手立てがない。彼女は、一度火がついた以上は燃やし尽くさねば満足するたちではないだろう。
リュディガーを捕らえ、飽いたら別の何かを探す。そうして、彼女は満たされないままに世界を玩具にして壊してしまう。そんな未来がリュディガーには予期されたのだ。
フルーエティは嘆息した。
「滅ぶだろうな」
ごまかしても仕方がないと思うのか、短く正確にフルーエティは答えた。
「原因はルイーズか」
「そうだな」
やはり、そうした未来が訪れるとフルーエティにも感じられるようだ。
心を強く持たねばならない。
けれど、自分の弱さを自分自身が一番よくわかっている。
それでも、今こそ強い心が必要なのだ。
リュディガーは背面にいる父に首を向け、凍ったままの顔につぶやいた。
「……私は父様の子」
だから、強く在れる。そうでなければならぬのだ。
それが、唯一の希望となる――。
「エティ」
リュディガーは鮮明な声でフルーエティを呼んだ。
迷うな、と。強く在らねばならぬのだと、何度も自分に言い聞かせる。
「私を過去へ連れていってくれ」
けれど、フルーエティはかぶりを振る。端整な顔をしかめると、腕を組み、考え込む様子を見せた。
「過去へ向かってもプトレマイアがルイーズを護っている。そうそう手出しはできぬだろう。……けれどまあ、この時代のルイーズを相手取るよりは僅かながらに勝算はあるか」
リュディガーはふと表情を和らげる。
「私が行きたいのはそれよりもさらに前。ルイーズが産まれる前だ。母様がルイーズの父親と逢瀬を重ねる前に説得できれば……」
ピクリ、とフルーエティの頬が痙攣したように動いた。
それでもリュディガーは引かない。もう決めたのだ。
他の方法を探すゆとりはない。
「ルイーズの父親は力のある悪魔だ。鉢合わせた場合、俺がお前を護れるとは限らない――いや、不興を買えばまず護れぬだろう」
それを不安に感じるのか。リュディガーはそっと微笑んだ。
「だったら、ルイーズの父親と出会う前でいい。もっと幼い母様に会わせてくれ」
「会って何を語る? お前の産む子が世界を滅ぼすとでものたまうのか?」
「私と母様はこれでも血を分けた親子だからね。会えば何か通ずるものはあるはずだ。私はそれに賭けたいんだ」
フルーエティはリュディガーの願いを苦々しく思ったかもしれない。表情にそれが珍しく表れていた。
あの母親にそうした絆を求めるなとでも言いたいのだろう。
いつもリュディガーの心はフルーエティに筒抜けであった。けれど、こうして常に共に行動してきたのだ。リュディガーにも少なからずフルーエティの心が読み取れるような気がした。
「母様にとって私は、それほど価値のある存在ではないのかもしれない。けれど、それでも、気休めでもいいんだ。私の最後の賭けだ。力を尽くしたと思えるように、私を過去へ連れていってくれ」
フルーエティの探るような目が、まるで人間のように思えた。そこに迷いがあるからだろうか。
主であるリュディガーがまた傷つくことを心配してくれるのか。
「頼む」
重ねて言った。
「私の心が望むようにさせてくれ」
フルーエティは眉根を寄せ、そうしてつぶやく。
「わかった。けれど、期待をするな」
その期待はリュディガーの身に返り、心を抉ると言うのだろう。
リュディガーはクスリと笑った。自分を一番案じてくれているのが、神でも肉親でもなく悪魔という皮肉。
けれど、そのことに感謝しか湧かない。
「ああ、ありがとう、エティ」




