*41
リュディガーは、フルーエティや三将たちと共にファールン公国の城館へ戻った。
こざっぱりと片づいた当主の部屋にて、氷漬けで横たわる父に語りかける。
「父様、苦しいですか? 父様をこのような目に遭わせてしまい、本当に申し訳ありません。けれど、今しばらくお待ちください。災厄がやってくるのです……」
ルイーズの母に酷似した容姿は、父にとっても悪夢でしかない。このまま眠っていてもらった方がいくらかマシなような気がした。
ベッドに腰かけ、父のそばに在る、そんなリュディガーをフルーエティたちは少し離れて見守った。
リュディガーはそこで天井を仰ぐ。美しい蔦模様を意味もなく視線でなぞった。
「父様――私はこの城で産まれ、優しい人々に育まれ、あの時までは本当に幸せに過ごしました。この場所で最期を迎えるのだとしたら、それは私にとってそう不幸なことではないのかもしれません」
ルイーズは、そんなぬくもりを何ひとつ知らないままに育った。リュディガーに憐れまれたくなどないだろうけれど、ルイーズの歪みは当人のせいばかりとも言えない。
同じ腹から生まれたリュディガーには、その憂さを受け止める覚悟が必要なのだろうか。
「……一番受け止めねばならぬのは『あの女』だろうに。メルクーアから引きずり出し、戦火の只中に置き去りにでもしてやればいいものを」
そういうことを言うとリュディガーが嫌がるとわかっていても、フルーエティは口に出さずにいられなかったのかもしれない。
リュディガーはそれに答えるでもなく苦笑して、三将の名を呼んだ。
「リゴール、ピュルサー、マルティ」
「はい」
皆がそれぞれに姿勢を正し、返事をする。
彼らにもよくしてもらった。そう思うから、リュディガーは言葉をかけたかった。
「三人にはとても世話になったね。魔界に来てすぐの頃、フルーエティはにこりともしてくれなかったから、三人が気さくに話しかけてくれて、私はすごく嬉しかったんだよ」
すると三人は顔を見合わせた。
フルーエティはバツが悪そうである。それが少し可笑しかった。
「リュディガー様はフルーエティ様がお選びになった主です。我らが尊ぶのは当然のこと」
リゴールが委縮しながらそう言ってくれた。
「そうか。私を選んでくれたフルーエティの気まぐれに感謝しないとな。フルーエティが選んでくれたからこそ、私は救われたんだ」
「……お前は、救われたと思うのか」
フルーエティがそう訊ねるのは、今の現状があるからだろう。この現状をどうにもできない自分に苛立ったような声だった。
今になってフルーエティとこんな会話をしていることがくすぐったくなる。リュディガーは穏やかに微笑んだ。
「もちろんだ。お前がいなければ、私はこうして父と再会することも叶わなかったし、ティルデと出会うこともなかったんだから」
フルーエティは何かを言おうとして止めたような形で唇を引き結んだ。
「そう遠くないうちに、この城にも敵兵が来るだろう。その前に市街が蹂躙される。お前はどこで戦うつもりだ?」
「まず一番最初に攻め入ってくるのはどこの国だろう?」
「メルクーアとナハト公国の両方からだな。ただ、ナハト公国の兵力は激減している。他の公国の兵を集めつつ、支度が整えば一気に畳みかけてくるだろう」
「それならここから動くことはできないね」
この城館を落とされてしまえば終わりだ。父のためにここにいるべきだろう。
「そうなるな」
フルーエティはうなずいた。
領地の町のすべては救えない。一箇所を救いに走ったところで別のどこかが潰される。
「ルイーズはどのルートで来るだろう?」
せめてそれがわかれば、少しでも多くの民衆をこの城壁の中へ逃れさせることができる。ルイーズがいなければ、三将たちなら軍を相手取って戦えるかもしれない。
「あいつのことは読めん」
フルーエティはかぶりを振った。
足掻いても足掻いても、結局のところは何ひとつ変わらない。
大事なものを護れる自分に、リュディガーはついぞなれなかったのか――。
「リュディガー様」
足元にピュルサーがひざまずく。
「敵わぬ敵との戦だとしても、私は敵の手があなたに迫る時を少しでも遅らせてみせます」
「僕も、これほどの高揚感を味わえる戦はそうそうないですから。命を燃やし尽くしても悔いはないですよ」
マルティも笑っていた。強がりではなく、それは本心なのだろう。
「私も同じ気持ちです」
言葉少なにリゴールも告げた。
「ありがとう」
静かに答えたリュディガーは、嬉しさと同じほどの悲しみを感じた。
彼らには生きてほしいと。
けれどそれを口にしては、彼らの誇りに傷をつけるようで言えなかった。
その晩、夢を見た。
繰り返し見ている夢だ。
幼いあの日、フルーエティが見せた幻。
忠実な青年軍人がリュディガーのために戦死するその光景。
そんな未来は嫌だと、それを回避するべくフルーエティの手を取った。
けれど現実は。
その時を僅かに遅らせただけではないだろうか。
馬上で槍に貫かれ、鞍から滑り落ちる青年。
手を伸ばしたところでリュディガーが支えきれるはずもない。
彼の体が落ちてくる。それを下から見上げるリュディガーは、あの頃のように幼い子供であった。降った骸がのしかかり、リュディガーの意識は暗転した。
――そうして、悪夢は形を変えてやって来る。
今にして思えば、あれは現実ではない。フルーエティが見通すのはいつも過去である。
契約の決断を促すため、こうした未来が来る可能性がある、とリュディガーに見せた幻でしかないのだ。
悪夢はリュディガーが目覚めることを許さず、両の腕に抱くようにして絡め取る。逃れることもできぬまま、リュディガーは夢に沈んだ。
視覚的にも寒さを感じさせる鉛色の曇天の下。
抵抗らしい抵抗もできぬまま、ただ骸だけが積み重なる。腕や首が離れた場所に散乱し、破れた臓物が汁を垂らす。放り出された骸には剣も鎧も必要ないとばかりに敵兵に奪われた。
鴉の群れは死肉が腐るのを待たず飛び交い始める。制圧された砦の門前で、その凄惨な光景は繰り広げられた。
目を覆いたくなる戦の跡に、穢れのない皇王が重厚な外衣を羽織って佇んでいる。白銀に輝く鎧も完璧に磨き上げられ、一点の曇りもない。
「――宗主国が何故、我が公国を滅ぼすと仰るのです」
砂塵舞う中、縄目に遭いながらも毅然とした様子で顔を上げた青年軍人。身体のあちこちに傷を負い、それでも眼前の威厳ある皇王に怯む様子を見せなかった。
本来ならば神にも等しい皇王は、彼が直視できるような存在ではない。けれど、このように理不尽な状況において崇敬の念は湧かぬものと見えた。
その背に、将校らしき男の手でハルバードの柄頭が強かに打ちつけられる。
「この悪魔兵めが! 誰が陛下の御前で発言を許したか!!」
骨が砕けるほどの衝撃に、青年軍人ハークはくぐもった呻きを漏らした。それでも醜態をさらさずに耐える。彼は誇り高き武人である。
冷ややかな侮蔑を込めてハークを見下ろす皇王の傍らに、美々しい少女が近づいた。足音もなく、滑るような足取りでやってくる。
その少女の中にとある貴人の俤を見たのか、ハークはハッと息を飲んだ。
けれどその様子は、少女の美しさに魅入られたようでもあった。皇王は不愉快そうに眉を動かした。それを感じつつも少女は見て見ぬ振りをする。
「あなたから感じ取れるわ。あの子との繋がりを」
どこか媚を含んだ声。けれど、ハークは表情を険しくした。
そんな彼に少女ルイーズは歩み寄る。その指がハークの鼻先に伸びた。
「あの子、とは……?」
「私の大事な大事なあの子よ」
うっとりと微笑むルイーズに、ハークは白い吐息と共にかすれた声を漏らした。
「……ルーツィ、エ様?」
あまりに酷似した美しき微笑。
けれどその名は、口にしてはならぬものであった。
美しい顔の目はカッと見開かれ、憤怒の形相にハークが驚いたのも束の間である。
耳鳴りのような音がしたのも刹那のこと。
逞しい首が胴と離れた。体から噴射する血潮は、まるで彼女を穢すことを恐れて避けたかのようだった。コロリと地に落ちた彼の首は驚きのままに固まっている。
ルイーズは繊手を振るっただけである。すでに人とは思えぬ力を見せつけていても、兵たちが騒ぐことはない。熱に浮かされた目をしてそこにいる。
「あら、私をあんな女と間違えるから悪いのよ。まあいいわ。あの子にいいお土産ができたみたい」
フフ、と笑ってルイーズはハークの首を胸に抱く。その首から滴る紅は、ルイーズをいっそう美しく彩る。
「あなたの主君、ファールン公の首も一緒に並べてあげるわ。父親が首だけになったら、あの子はどうするかしら。それでも愛せるのかしら?」
夢と呼ぶにはあまりに生々しい光景であった。




