*40
「――エティ、魔界に戻ろう」
打つ手がないことはわかった。それならば、ここにいる意味もない。
リュディガーの言葉にフルーエティもうなずいた。
「わかった」
そんな二人にプトレマイアは微笑む。
「そうなさい。いつの時もルイーズ様は我が軍勢が護り通す。どこにも隙などありはしないのだから」
花の香に嫌気が差す。魔界に似た生ぬるい空気も、プトレマイアの嘲笑も、すべてがリュディガーには不快であった。けれど、一番赦せぬのは、なんの力も持たぬ己自身か。
グッ、と握り締めた拳をフルーエティが見遣った。
「リュディガー公子、あなたはただルイーズ様を喜ばせて差し上げればよいのです。そうしたら、あなたの人生も開けるでしょう」
黙れ、とフルーエティが珍しく、獣が唸るような低い声で恫喝する。プトレマイアは柳眉を顰めた。
「お前は何も知らぬから」
フルーエティはその先を聞くつもりはなかったようだ。リュディガーに聞かせたくなかったのかもしれない。腕を振るい、魔法円を描き出すと、花の園からリュディガーと自身を遠ざけた。
魔法円の赤光がちらつき、遠退く視界。赤子のルイーズを愛しげに胸に抱くプトレマイアの姿が目に焼きついた。
悪魔の情とは、それほどに強いものなのだろうか。いつになく感情的なフルーエティの横顔を眺めながら、今さらながらにそんなことを思った。
一度魔界に戻ると、リュディガーは深呼吸をして心を静めた。この薄暗い空に慰められたような心境だった。
むしろ、フルーエティの方が気が立っていたように思う。そんなフルーエティにリュディガーは苦笑した。
「なあ、エティ、リゴールを呼んでくれないか。ライムントの背に乗りたい」
沈む気分を払拭したくてそう言った。フルーエティはそんなリュディガーの心を酌んでくれた。
「ああ」
リゴールを呼べば一緒についてきたマルティとピュルサーも、今はそれぞれの持ち場だ。リゴールだけが黒髪をなびかせ、ライムントを駆って崖の端へ降り立った。飛竜の鞍上からリゴールが降りるよりも先に、リュディガーは手を伸ばしてライムントの背に上る。
「リゴール、美しい世界を見せてくれないか」
心を落ち着ける素晴らしい景色を見たい。そんなリュディガーの願いにリゴールは静かにうなずいて答える。
「畏まりました」
そうしてリゴールは手綱をさばき、ライムントを羽ばたかせた。フルーエティも近くを浮遊している。
リゴールが選んだ場所は、それは不思議な光景だった。苔むした岩のような島が浮かぶ場所、霧に覆われた円形の滝、広大な森とそこを飛び交う美しくも獰猛な魔界の鳥たち。
それから悪魔と罪人たちのひしめく市場、微罪の魂の行き場。
悪魔たちの営みに人とそう変わりないものを感じ、リュディガーは複雑な心境だった。
魔界にも美しいものはたくさんあった。
けれど、それらが故郷のものに勝るだろうか。愛しい故郷の土、草木、風の匂い――すべてと比べてしまう自分がいる。
それほどまでに掛け替えがないと思うなら、自分はどうすべきか、迷いは晴れるのだ。
自分はあの土地で、できることならば最期まで父を護っていよう。
ルイーズに勝てるほどの力はないけれど、最期はそうして幕を閉じればいい。もう、ティルデはいないのだ。死して魂となったところで逢えぬのだ。
ならばもう、迷うことはない。
「ありがとう、リゴール。もう十分だ」
ライムントの背で、風に髪を弄られながらリュディガーがリゴールの背に向けてつぶやく。リゴールは振り返って物言いたげな目を伏せた。
「はい、では戻らせて頂きます……」
ああ、とリュディガーは返した。
フルーエティは上空で、そんなリュディガーを無言で見守っていた。
その後、リゴールを下がらせてリュディガーは崖の縁に立っていた。一歩先に足場はない。その危なげな足元もフルーエティがいれば恐ろしくはないのだ。
「なあ、エティ」
振り向かずに呼んだ。
「なんだ?」
感情の読めない声が返る。リュディガーが振り向くと、フルーエティはただリュディガーを見ていた。そんな彼に、リュディガーはポツリと言う。
「お前にとってこの戦はどうなんだ?」
「どういうことだ?」
フルーエティはかすかに眉根を寄せた。そんな不機嫌な顔にリュディガーは問う。
「初めて会った日に言ったじゃないか。力を振るいたくなったと。退屈しのぎに手を差し伸べてくれたのだろう? 少しは楽しめたかい?」
皮肉でもなんでもなくそう言った。フルーエティはさらに顔をしかめた。
「そんなことを言ったか?」
「言ったさ。上級悪魔のお前が、ただの子供でしかない私に手を差し伸べる理由がそれだと私は思ってきたが。お前は戦いを望んでいたんじゃないのか?」
すべてを粛清する力を貸すと言った。
悪魔をはね除けたリュディガーに、それでも手を差し伸べたのは、戦いに飢えていたからではないのか。
戦いを求めたのなら、この流れはフルーエティにとって望ましいものなのか。ふとそんなふうに感じたのだ。
けれど、そうではないのなら――。
ルイーズが言うように、リュディガーが引き継ぐ母の血が悪魔を寄せつけるのなら、そんな繋がりは悲しいだけだ。
そうしてフルーエティに向けて手を突き出す。
契約の印。
フルーエティとの確かな繋がり。
フルーエティは無言でリュディガーを眺めた。そんな彼に向け、リュディガーは告げた。
「契約の解除はやはりできないのか」
「……なんだと?」
フルーエティは眉根を寄せた。リュディガーはゆるくかぶりを振ってみせる。
「エティ、お前は私に十分なことをしてくれた。だから、もうお前のことを解放したい」
これからのルイーズとの戦いに未来はない。勝てるとも思わない。
それでもフルーエティはリュディガーの願いを酌み取って戦い抜いてくれるだろう。
ただし、そのためにフルーエティは同胞とも戦わなければならない。フルーエティ自身もルイーズと戦えば傷つく。あの赤い血の色が鮮明に蘇る。
敵わないと知る戦いのためにフルーエティを使役し続けるわがままを、リュディガー自身がよしとできぬのだ。
その気持ちもフルーエティは読み取る。けれど、納得はしなかったようだ。
「だからお前は浅はかだと言うのだ。俺の力も借りず、あの魔女相手にどうするつもりだ。あの女はお前が頼もうが侵略を止めることはない。あれは血に飢えた獣と同じだ。御託を並べるだけで実際は血を見ずにはいられぬだけなのだ」
「それは……」
わかってはいる。
けれど、あまりにも自分に関わるすべてが虚しく散っていくから。
フルーエティでさえも傷つき、血を流すから。
どうしたら護れるのか。救えるのか。
喪わずにいられるのか。
それがわからないから苦しいのだ。
そんなリュディガーの苦しみが伝わったのか、フルーエティはふと表情を和らげた。
「お前に心配されるとは、俺も見くびられたものだな」
「そういう、わけじゃ……」
どう言えばいいのかわからず、リュディガーの言葉は尻すぼみになる。そんなリュディガーにフルーエティははっきりとした言葉で言った。
「これでも六柱の悪魔だ。俺はお前よりも先に消滅することはない」
「絶対だな?」
「当たり前だ」
その仏頂面にリュディガーから安堵のため息が漏れた。
「なあ、エティ」
「なんだ?」
「もし私が死んでしまったら、罪深い私の魂はアケローン川のほとりにいるよ。そうなったら主従とは言えない関係になるのだろうけれど、迎えに来てくれるかい?」
フルーエティはそういう話をしたくはなかったかもしれない。それでもリュディガーの戯言につき合ってくれた。
「いいだろう。もしそうなったら我が配下へ加えてやる。一兵卒から出直せ」
「おや、それは大変だ」
クスクス、と先の見えない不安をごまかすようにしてリュディガーは笑った。
今さら手を引けと言われて従うのなら、端から手を差し伸べなかったとでもいうのだろうか。フルーエティが最後までつき従うつもりでいてくれるのなら、リュディガーにとってこんなにも心強いことはないのだ。
最後の戦いがこうして始まる。




