*39
上級悪魔でさえも退けるほどの力を持つルイーズ。
その血に混ざるものはなんなのか。
そう考えたリュディガーに、フルーエティは言う。
「それでも生れ落ちた時は赤子だ。その赤子を殺めれば、あの化け物染みた力を持つ女は消える」
つまり、過去に行き、生まれたばかりのルイーズを殺すと言うのだ。
「そうすれば、ファールン公国への襲来はなかったものになるかもしれん」
それは甘美な言葉であった。生まれたばかりの嬰児を屠るおぞましさを差し引いたとしても、それで救われる命の多さを考えるならば――。
「……わかった」
リュディガーはうなずいた。
以前の自分ならばうなずかなかった。そんなことは許されないと憤っただろう。
けれど、それがどれほどに愚かしいことか、今の自分は知っている。
護るためならば、なり振り構ってはいられない。手段など選ばない。後になって後悔するだけの未来はもうたくさんだ。
「その前に、エティも少し休んでくれ。私も休ませてもらうから」
そう言わなければフルーエティは納得しないのではないかと思った。回復しないままでことを起こしては仕損じる。
「ああ。けれどそう長く休息は取れない。急いだ方がいいだろう」
ルイーズがいつどう動くのか、それがまるで読めない状況なのだ。それも無理からぬことである。
それでも、まったく休まないよりはマシだろう。
言葉の通り、ほんの少しの仮眠と食事でリュディガーは自分を奮い立たせた。むしろ気が昂っているせいか、それで十分な気がした。
フルーエティはというと、あの傷が嘘のように塞がり、いつもの取り澄ました顔で応接室にてリュディガーを待っていた。フルーエティはリュディガーに向かって軽く嘆息すると言った。
「あの女が生まれた頃――せいぜいが十四年前だろう。お前の母の生家へ行くぞ」
母の生家はファールン公国の、それもメルクーア公国寄りである。祖父が宰相を勤めた家系の一人娘であるのだが、その美貌と教養が知れ渡り、父との縁談が持ち上がったと聞いた。
二人は覚悟を決めて屋敷の外へ出た。魔界の生ぬるい風が吹く。
フルーエティはリュディガーが知り得る程度の情報は容易に知ることができるのか、詳しい場所も訊かずに魔法円を描き出した。けれど、その魔法円の中へ飛び込む前に一度リュディガーを顧みた。
「わかっているとは思うが、同じ時へ行ける機会は一度。何度もやり直しが可能なわけではない。ためらうな」
「ああ、わかっている」
そうして二人は過去へと向かうのだった。
母の生家。
リュディガーも年に数えるほどは赴いていた。母方の祖父母にとって、リュディガーは孫であると同時に主家の人間である。優しく丁寧に接してくれていたけれど、いつもどこかで一歩下がっていた。
花のような一人娘を大切に慈しんだ二人だ。母のために美しい庭園を常に保っている。この庭が母の大切な場所なのだと教えられた。
リュディガーとフルーエティはその庭園に佇む。
規則正しく波紋のように並べられた石畳。アーチを這う蔓薔薇。小さく可憐な花々の園。
今はどこか空気が違った。ここが過去であるからだろうか。肌が、違うと感じるのだ。
リュディガーはむせ返るほどに強い花の香の中、フルーエティに問う。
「ルイーズの気配は?」
すると、フルーエティは顔をしかめた。犬歯が見えるほどに強く歯噛みする様子に、リュディガーは心がざわついた。
「エティ?」
「……あれは」
「え?」
リュディガーが小さく声を漏らすと、花の園が揺らめいた。ぶわん、と耳鳴りのような音が響き、リュディガーは覚えのある感覚に身構えた。
フルーエティが描く魔法円と同種のものがそこに浮かび上がったのだ。そうして魔法円の赤光が消え失せた時、その中央に佇むのは一人の青年だった。
肩口で揺れる、緑がかった茶色の髪。黒衣をまとった細身で端整な立ち姿。翠玉のような瞳が微笑む。それは優美に――。
「やあ、フルーエティ。久し振りだね」
ゾクリとするような透き通る声。
「プトレマイア」
それが彼の名なのだろうか。フルーエティがそれを口にした。
プトレマイアはクスリと笑った。
「何故ここにいるのかという顔だね」
リュディガーはチラリとフルーエティを見上げる。けれど、フルーエティはプトレマイアから視線を逸らさなかった。強い警戒がそこに窺える。
プトレマイアはリュディガーに向け、柔らかく微笑んだ。
「あなたがフルーエティの主、リュディガー公子か。お初にお目にかかる。私はプトレマイア、上級悪魔六柱が一。――そう、フルーエティの同胞だ」
「あ、ああ……」
上級悪魔。並々ならぬ空気を放つ彼に気後れしたリュディガーは、ろくに言葉も返せずにいた。
そんなリュディガーにプトレマイアは楽しげに言う。
「フルーエティの主である前に、我が愛しの君の大事な異父弟殿だ。それなりの歓待はさせて頂こう」
「え……」
彼は今、何と言ったのか。
頭が考えることを拒否しているのか、上手く働かない。呆然としたリュディガーに、プトレマイアは抱えるほどの球体を手元に出現させた。
透明で、ガラスのような質感の球の中には、清潔な白い肌着を身に着けた嬰児がいた。
柔らかな薄い髪が頭に張りつき、生まれて間もないというのに顔立ちの美しさが窺える。穏やかな顔をして眠っている赤子は――。
「こちらの動きなど簡単に読まれているわけか」
フルーエティはそんなことをつぶやいた。やはりあの赤子はルイーズなのか。
「まあ、そういうことだね。それで、どうする? 私とやり合うかい?」
悪魔とは思えないような優しげな声と微笑でプトレマイアは言う。けれど、六柱の上級悪魔であるのだ。フルーエティと同等、もしくはそれ以上の力を秘めているのだろう。フルーエティは簡単に彼の挑発には乗らなかった。
「――その子供、純粋な人の子ではないだろう。お前はどこまで知っている?」
そう訊ねるも、プトレマイアは笑うだけだった。
「どこまで、か。どこまでもと言っておこうか。フルーエティ、お前は自由に振舞いすぎだ。すぐに人の世に介入する。今回もよりによってという選択をしたな。それでも赦されるのは、お前だからか」
よりによってとは、リュディガーを主としたことを指すのだろうか。そのせいでプトレマイアと対立してしまっているのだから、そうなのだろう。
フルーエティは答えない。ただプトレマイアを鋭い眼光で睨みつけている。
そんなフルーエティにプトレマイアは鼻白む。
「まるで番犬のようだ。なあフルーエティ、ルイーズ様は一度お決めになった以上は必ずファールン公国を攻め落とされる。必ずだ。あの方にはそれだけのお力がある。抗うことなどできないのだよ」
本当に、道はないと言うのか。
こんな結末のために自分は、苦しみながら生きながらえたと言うのか。
あまりに惨い現実だ。救いはどこにもない。
愕然と言葉を失くしたリュディガーに、プトレマイアはそっと告げる。
「あなたはルイーズ様のそばに在ればよいのだ」
「ふざけるな。こいつにはこいつの生がある。相手が誰であろうと蹂躙される筋合いはない」
いつでもフルーエティはリュディガーの味方でいてくれる。
同胞を敵に回してもそれは変わらない。その事実がリュディガーに勇気をくれた。
凍りついた思考回路がゆっくりと動き始める。そうしてリュディガーは決意した。




