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魔界で過ごす時は、リュディガーにとって予想以上に穏やかなものであった。
フルーエティは位の高い悪魔であり、魔界の反り立った崖の上に屋敷を構えていたのである。蔦に護られた暗色の屋敷は、繊細さも兼ね備え、禍々しくも美しい。
リュディガーはその屋敷で大切に扱われた。
そこには大勢の悪魔の僕がいた。フルーエティの僕の低級悪魔だ。見た目は人に似た者が多かったけれど、鱗に覆われている者、獣の頭を持つ者、明らかに異形であった。最初はその姿を恐れたものの、僕たちにフルーエティの主たるリュディガーに害意など抱くはずもなく、皆従順であり、その恐怖心も次第に薄れた。
公子であった頃のリュディガーは、侍女たちに身の回りの世話をされていた。だから、リュディガーは同年の子供たちができて当たり前のことができなかった。一人では湯浴みもできない。
その上、フルーエティが用意してくれる服は今までリュディガーが着用してきたものとは勝手が違い、みっともないほどに手間取るのだった。繋ぎ目がどこなのか、縫合の跡すら見えない黒ずくめの服である。
それでもフルーエティはあえて僕に世話をさせず、リュディガーに自分のことは自分でさせた。リュディガーはフルーエティの主となったけれど、扱いはまるで弟のようだ。
「身の回りのことくらい自分でできるようになれ。そんな主では俺が恥ずかしい」
揶揄するその口調に、リュディガーは憤りつつも意地で自立していくのだった。
食事は、フルーエティが僕に命じてリュディガーに合った食事を用意してくれた。それらは国で食べていたものと変わりない。ただ――フルーエティが何かを口にしているところは見たことがなかった。食事の時、いつもそばにはいてくれたけれど、一緒に食べたりはしない。
そこはあまり追求してはいけないような気がして、リュディガーは何も訊ねないことにした。
そうして、リュディガーは魔界で育った。気候風土のせいか食べ物の影響か、烏のように黒々としていた髪と青かった瞳にはうっすらと紫が混ざったように思う。
「エティ」
リュディガーはフルーエティを呼んだ。それはリュディガーが彼につけた愛称である。
本来、悪魔と契約するにはその悪魔の『真名』を突き止め、その名を魔法円に刻み悪魔を縛る。けれど、特殊な状況下での契約をしたリュディガーは、彼自身が真名を教えてくれたのだ。その名は主であるリュディガー以外が知ってよいものではないらしく、その名は墓まで持っていくべき秘密らしい。
迂闊にその名を呼ばぬため、リュディガーは彼をこう呼ぶことにしたのだ。フルーエティは、意を唱えることもなくそれを受け入れた。
「なんだ?」
魔界の風に吹かれながら渓谷を見下ろしている主に、フルーエティは問う。
リュディガーは軽くうなずいた。
「リゴールを呼んでほしい。稽古をつけてもらいたいんだ」
このフルーエティには大勢の配下がいる。その中でも特別に力の強い三将がマルティ、ピュルサー、リゴールという悪魔たちである。
悪魔は魔法を使って戦う者が多く、武器を手にする者は少ない。高位であればあるほどに。フルーエティもそうだ。
けれど、リゴールは飛竜の乗り手で武器の扱いに長けている。リュディガーは彼から武術を学んで過ごしているのだ。
本当はフルーエティを使役している今、リュディガー自身が力をつける必要はない。ただ、それではリュディガーが納得できない。自分の国のことを他人任せにするように感じられてしまうのだ。
自らも腕を磨き、力をつけた時に初めて地上に戻って現実に向き合えるのだと思う。
フルーエティは思念でリゴールを呼びつけた。主君の呼びかけにリゴールは騎竜に跨り駆けつけるのである。大きな影がリュディガーとフルーエティの上に落ちる。見上げた先に飛竜の腹があった。
軍馬の三倍はあろうかという黒い肌をした竜が崖に降り立つ。金色の瞳は猛々しく聡明に輝く。
リゴールの騎竜ライムントである。その雄大な翼で羽ばたく音は鳥の比ではない。
ライムントが頭を垂れ、その首から滑るようにしてリゴールが降りてくる。リゴールは均整の取れた体格をした騎士だ。逞しくはあるものの、優美さも兼ね備えている。風になびく黒髪を束ね、紫の瞳は若々しくもどこか落ち着いている。動きやすさを損なわない黒金の鎧をまとい、彼は二人の前にひざまずく。
「六柱が一、フルーエティ様の配下、リゴール。只今馳せ参じました」
「ああ、よく来てくれた。リゴール、すまないがまた私に稽古をつけてほしい」
リュディガーがにこやかにそう言うと、リゴールは顔を上げて少し困った顔をした。尖った耳がぴくりと動く。
「貴方様は我が君の主にあらせられます。そのようなことをされる必要はございませんと毎度申し上げますのに」
そんなリゴールに、フルーエティはクスリと笑った。
「俺からはやりたいようにしろとしか言えないな」
思わずリュディガーも苦笑する。
そうしていると、崖の上に一匹の獅子が太く大きな脚でもって駆けてきた。その存在感に、大地そのものが躍動して見えた。
金色の鬣が、リュディガーにはまるで太陽の光のように感じられる。しなやかな雄獅子は、彼らの前に来ると猫のように行儀よく座り込んだ。そして、全身が光り輝いたかと思うと、その獅子は形を変えて年若い青年になった。
それでも金色の鬣は健在で、彼の頭髪は癖の強い金髪。つり目がちな瞳も金色である。黒いレザーのような服を着込んだむき出しの二の腕は、筋肉質ではあるものの、獅子である時を思えばほっそりとしたものだった。リュディガーと外見年齢が一番近いのは彼だろう。
「ピュルサー」
リュディガーが親しみを込めて呼ぶと、ピュルサーは柔らかく微笑んだ。
「リュディガー様、フルーエティ様、ご機嫌麗しゅう――」
その声を掻き消すように空から降ってきたのは、マルティだ。本当に空から降ったわけではないけれど、彼は俊足と驚くべき身の軽さを誇る。その痩身は風にも乗れるのではないかと思えるほどに。
短めの赤い髪に黒曜石のような瞳。愛嬌のある顔立ちの青年である。敏捷さを損なわない軽装が好きなようで、彼はいつもまるで平民のような格好をしているけれど、それはそれで洒落て見えた。
「なんだ、お前らまで呼んだ覚えはないぞ」
フルーエティが呆れたように言った。
するとマルティが尖った犬歯を見せつつ気の抜けるような笑顔を向けた。
「リゴールばっかりずるいですよ。僕だってお二方のそばに呼んで頂きたいんですから」
「邪魔は致しませんので」
ピュルサーも至極真面目に言う。
フルーエティの主となってこの魔界に来た頃を、リュディガーはなんとなく思い出す。ただの人の子であるリュディガーがフルーエティに選ばれて主となったことに驚きつつも、フルーエティが決めたことだからと三将はリュディガーにとてもよくしてくれた。
悪魔とは信仰を妨げ、人を堕落させる悪しき者――そう教わってきたリュディガーにとって、彼らの存在は信じがたいものであった。彼らは主君を信じ、二心なく仕えている。
だからリュディガーは思わずフルーエティに訊ねてしまった。
悪魔にも心はあるのか、と。
フルーエティは失笑すると、
「人と同じほどにはな」
そう答えたのだった。