*38
痛いほど肌に感じるのは、ルイーズの魔力だった。噴水の水飛沫がそれを含んで輝く。
少し齧った程度のリュディガーの魔法など、彼女の前では児戯に等しい。魔法を使って抵抗しようにも、この場にリュディガーの力となる精霊の力を感じることはできなかった。
しかし、剣技も大した腕ではないのだ。どう抗うべきか、考えることもできなかった。
気づけば、彼女の足は地から離れていた。ふわり、と宙に浮いている。ルイーズは美しい顔を恍惚と染めた。
「さあ、遊びましょう遊びましょう」
狂った人形のような彼女に、リュディガーはなす術もなく立ち尽くしていた。
――美しく、たおやかな母。
少なくとも、リュディガーにとって母は、あの瞬間まではそうした存在だったのだ。
その母が産み落としたもう一人の子。
母に酷似した容姿は、リュディガーにとって悪夢以外の何物でもなかった。
リュディガーに飽きたその時には、メルクーアにいる母を玩具にするのだろうか。
ルイーズは不意に、歓喜に水を差された様子で眉を顰めた。
「あんな女に興味はないわ。放っておけば醜く老いて死ぬだけだもの。私はあなたと遊びたいの。ね、可愛いリュディガー。あなたの苦しそうな顔を想像しただけでゾクゾクするわ」
彼女にとっての人間とは、対等な生き物ではないのだ。慈悲や愛を求めても虚しく響く。
ザァッと豪雨のような水音と共に、魔力を含んだ水の粒がリュディガーに迫った。
歯を食いしばり、その攻撃に耐えることしかできない。リュディガーがそう覚悟を決めた時、リュディガーの視界で青みがかった銀髪が踊った。
「クッ……」
光り輝く魔法円からフルーエティが飛び出し、礫のような水球を氷塊の盾で受け止める。けれど――。
「エティ!!」
いつものようなゆとりがそこにはなかった。水球がかすり、破れた黒い服の合間からは血が流れている。
悪魔の血も赤いのかと、こんな時だというのにリュディガーはぼんやりと思った。
荒く肩で息をするフルーエティ。彼の氷の盾が消えると、宙に浮かぶルイーズの歪んだ顔がリュディガーにも見えた。
「……嫌だ、こんなところまで来るなんて。なんて目障りなの」
「こいつは俺の主だ」
「うるさいのよ。黙りなさい」
カッと両目を見開いたルイーズに、リュディガーは戦慄した。けれど、このままではいけない。リュディガーはフルーエティを押しのけて立った。
「姉上」
そう呼びかけると、ルイーズは幾分機嫌を直したようだ。リュディガーは彼女を見据える。
「私さえ姉上のそばにいれば、我が祖国を踏み躙るのはやめて頂けるのだろうか? もしそうなら――」
すると、ルイーズはコロコロと笑った。
「そうねぇ。でも、あなたの大切なものがまだあそこにあるのなら、全部失くしてしまわないと。あなたは私だけを見ていればいいのよ」
だったら何故、リュディガーを父に再会させ、公都奪還を許したのか。ナハト軍がフルーエティの配下の悪魔兵に切り崩されていても、思えばルイーズは静観を続けていたのだ。
そんなリュディガーの疑問をルイーズはすぐに拾った。
「何故って、その方があなたが喜ぶと思ったのよ」
「それは……」
「悪魔兵の圧倒的な快進撃は楽しかったでしょう? 絶望だらけで生きる気力もなくなったあなたにしたくなかったから、しばらく遊ばせてあげたのよ?」
父を救えたと喜ぶリュディガーを、ルイーズはどこかから眺めて楽しんでいたのだろうか。そう思ったら、胃の腑がつかまれたようにキュッと痛んだ。
でもね、とルイーズは言う。
「もう、要らないでしょう? あの女だってそう」
美しい微笑に残忍な影を落とす。
「母様のことか?」
すると、ルイーズはつまらなさそうに言った。
「違うわよ。ティルデとかいったあの女よ。あなた、一時は夢中だったじゃない。でもほら、死んだらもうそれまで。やっぱり要らないんじゃない?」
まさかとは思う。けれど、ティルデの死――その引き金はルイーズが引いたのか。
ルイーズは小さくかぶりを振る。そうして薄く笑った。
「私はあの男たちの夢でささやいただけよ。森に行けば人肌に飢えた女がいるって。あとは、視ていただけ。直接手を出していないわ」
夢でささやいたと。
しかし、ルイーズのささやきはただの人間のものとは違う。力を持って、男たちを惑わせたことだろう。本来は小心で凡庸な男が大それたことをしてしまうほどには影響を及ぼしたに違いない。
リュディガーの父やティルデ、ファールンの民はルイーズにとっては無価値なのだ。それらをどれだけリュディガーが大切に思おうとも。
「これ以上、好きになんてさせない」
震える声で思わず言い放ったリュディガーに、ルイーズは嘲笑う。
「そう。でも、あなたに私は止められないわ。あなたは非力だもの」
フルーエティですら傷つき、やっとのことで対峙している。リュディガーの力でルイーズを抑えることなどできぬだろう。
では、諦めるのか。
大切な者のすべてを。
それでも、ティルデにしたように、骸を抱えて嘆くことは二度としたくない。
ならば、敵わないとしても立ち向かわねばならぬのだ。
リュディガーは炎を手の平に集めた。やはり、この場所では水精が強く、火は勢いをなくした。あまりに頼りなく、今にも消えそうな火を見たルイーズは哄笑する。
「あははっ、なぁにそれ? そんなもので私と戦うの?」
リュディガーは頭に響く笑い声の中、必死で力を集める。ただ、その隙にフルーエティは傷口から流れる自らの血を周囲に撒いた。その途端、リュディガーの火勢が蘇った。ゴウ、と渦巻く炎を解き放つ。
「諦めなさい。大切な人間をそばに置くなんて、あの女の子供である私たちには似合わないのよ」
悲しいひと言を楽しげに言い放つ。
その炎を持ってしても、ルイーズに一矢報いることなどできないだろう。赤く照らされた庭園の中、その炎の末路を見届ける前に、フルーエティは魔法円を描きリュディガーを抱えて飛んだ。
最後にリュディガーは、ルイーズの美しい瞳が憎らしげに細められたのを見た。
フルーエティがリュディガーを連れて戻ったのは魔界であった。
屋敷の前で膝を折る。
「エティ!」
完全無欠に思われた悪魔も、傷ついている様は人と変わりない生き物に見えた。フルーエティは苦しげに言う。
「結界を破るのが厄介だっただけだ。これくらいすぐに治る」
これくらいと言うほどに傷は浅くない。リュディガーはキュッと唇を噛み締めた。
「ルイーズ――私の姉だという彼女は一体なんだ? 何故あんなにも強力な力を持つ?」
すると、フルーエティは嘆息した。その額から汗が一筋落ちる。
「……あの存在は俺にも見通すことができない。あれは人の種ではないな」
「え?」
「母はお前と同じかもしれん。けれど父親は――」
フルーエティは彼女を化物と呼んだ。
「彼女の父親に心当たりがあるのか?」
「断定はできない。けれど、逆に俺が見通すことのできない力を持つ相手とするなら、対象は絞られる」
彼女もフルーエティのように心を読んだ。彼女は悪魔の子ではないだろうか。
その疑惑をフルーエティは肯定するのだ。
「あの女はそのつもりがあればこの魔界までもやってくるぞ。けれど、そうする前にファールンの地を攻め落とすだろう。それからお前を捜しに来る」
「それはつまり、私がここに隠れているとファールンが滅ぶということか」
自分で口に出してゾッとした。
彼女ならば楽しげに笑いながら民を蹂躙するのではないだろうか。
けれど、彼女は宗主国で崇め奉られている預言者である。ならばその彼女が滅べと言うのなら、ファールンの民は滅ぶ道を選んでしまう。宗主国とは、神とは連なる人々にとってそうしたものである。
親の怒りが理不尽なものであったとしても、叱られた子は叱られたのならば自分が悪かったのだと思い込むようなものだ。絶対的な存在に理由など要らぬのだ。
ただ、ルイーズは神などではない。その対極の存在である。けれど、誰がそれを知り得るというのだろう。
神性も魔性も人を越えたものである時点で、そう差異はないのかもしれない。
「疑わぬ心が自らの命を消し去る。信仰が何を救うと言うのか。それでも、その蒙昧な魂を天門が受け入れるのならばそれでよいのか?」
フルーエティがそんなことを言う。
幼い自分が口にした信仰という言葉が、今、自分に重くのしかかるようであった。リュディガーは苦しげにつぶやく。
「どうすればファールンを救うことができるのだろう」
フルーエティでさえも苦戦する、あの圧倒的な力をどうすればねじ伏せることができるのか。
「少し試してみるか」
そうささやいたフルーエティの傷は、先ほどよりも幾分塞がっていた。切り裂かれた服までもが再生したようである。
「一体、何を――?」
驚きつつ訊ね返すリュディガーに、フルーエティは軽くうなずいた。




