*36
リュディガーはフルーエティだけを伴って宗主国ファイルフェンへと向かった。
直接町の中に飛ぶ。建物の陰に降り、目立たぬように潜入することができた。それはあまりに呆気なく――。
闇の中から這い出す化物だと、リュディガーは今の自分をそう感じた。
隣のフルーエティは髪も瞳も黒く保っている。リュディガーはフードを被らずにおいた。
見上げた宗主国の町並みは、繊細な彫刻のようだった。石英を彫って作ったのではないかと思うような透明感のある建築物。芸術的な町並みに色は乏しかった。白と金、そうして植物の色、それくらいである。
けれど、それがまた神聖な空気を醸し出している。塵ひとつない道の石畳も氷のように透き通り、傷もほとんど見受けられない。
「……美しい町だな」
リュディガーは素直に言った。町並みは美しい。けれど、それを統べる者が邪悪である。
フルーエティはスッと目を細めた。
「ここに渦巻く気は――」
「え?」
リュディガーにはそれを察知することができなかった。
美しい町の中を、洗練された装いの人々が優雅に行き来するだけである。同じ大陸で戦が起こっていることなど、自分たちにはまるで関係がないとでもいうように。宗主国に住む、選民としての意識があるのだろう。
この地にいれば安全と思うのか、リュディガーたち異分子の存在を警戒する様子もない。
フルーエティは何かを察知したのか、そのまま失笑した。
「とんだ神の国だな」
「どういうことだ?」
リュディガーが訊ねると、フルーエティは答える前に唇を強く結んだ。
そうしていると、町の人々は鐘の音が鳴った途端にパッと顔を上げた。
「ああ、参拝に行かねば。今日こそはルイーズ様のご尊顔を拝謁できるといいのだが」
「お姿をお見せ下さるのは稀なこと。わかってはいてもあの神々しいお姿を拝みたいものだ」
そう、口々に、熱病に罹ったかのような目をしてささやき合う。
彼ら町人たちが駆けつけた先は、鐘の鳴り響く大聖堂だ。そこは城の一角でもある。
「ルイーズ?」
リュディガーはその名を口にした。
女性の名である。皇王は男性だ。では、そのルイーズと言うのは一体何者なのか。
「エティ、何かわかったことがあるなら言ってくれ」
そちらに顔を向けずに言うと、フルーエティは静かに答えた。
「……この国には俺にも見通せない化け物が潜んでいた。そういうことだ」
「化け物?」
ようやく二人の目が合う。体にまで深く染み入る鐘の音が、不安を増幅させるような気がした。
「その目で確かめたいと思うか?」
「当然だ」
考えるまでもなく答えた。けれど、フルーエティの瞳には迷いが見受けられた。そのことにリュディガーが驚いていると、彼は言った。
「今さら逃れられるものでもないか。立ち向かうより道はないのかもしれない」
強い力を持つ上級悪魔のフルーエティ。
その彼が不安を感じる相手とは――。
リュディガーはギュッと拳を握り締めた。
「けれど、その相手が我が祖国に戦を仕掛けた元凶なんだろう?」
「そうだ」
「それならこのまま見過ごせない」
フルーエティは静かに、そうかとつぶやいた。けれど、その目は少し寂しげであった。
鐘の音に導かれ、リュディガーは大聖堂へと歩を進める。
途中、熱狂的な人々の群れに追い抜かれた。それでも、鐘の音は、誰よりもリュディガーを誘っている。何故かそんなふうに思えた。
大衆に紛れ、大聖堂の正面でたくさんの警備兵が配置された中、皇王が現る。
純白と金糸に飾られた神々しい姿。まだリュディガーの父とそう変わらぬ年の頃だろう。顔立ちには若さと共に威厳も備えつつ、金の髪が美しく輝いている。
けれど。
彼はその場の中心にはなり得なかった。
リュディガーは思わず口を押えて声を殺した。手が、脚が、尋常ではないほどに震える。
脂汗を額に滲ませ、リュディガーはかすれた声でフルーエティに問う。
「エティ、あれは……あれは、なんだ……?」
それでも、フルーエティは答えを持たない。こんなことは初めてであった。
皇王の隣で微笑む一人の少女。
彼女がこの場を掌握していた。
まだ十代半ばほどだろうか。純白のドレスのような法衣に宝珠の乗った錫杖を握る姿は、まるで女神のように美しかった。淡い色の柔らかな髪、灰色の瞳。艶やかな唇が完璧な微笑を保つ。
あまりに美しいその姿に、リュディガーはこの世にあらざるものを見たのだ。
「あれは……あれはまるで……!」
よく似ていた。
否、似ているという表現すらも適当ではないほどに、そのものであった。
あの美しい少女は、リュディガーの母と同じ顔をしていたのだ。
母が若返り、少女になったとしか思えぬような姿である。
グッ、と心臓を押えた。感情の波に鼓動が乱れる。
フルーエティはそんなリュディガーに抑えた声で言った。
「あれはお前の母ではない。あれは、別の何かだ」
ただ、気持ちが悪かった。
母ではない、けれど母によく似た少女。
リュディガーは眩暈に耐えながらそこにいた。
大衆は彼女に陶酔した目を向け、彼女をたたえる。
彼女の名はルイーズ――。
「ああ、ルイーズ様にお目にかかることができた。今日はよき日だ」
「偉大なる予言者とはかくも美しいものなのだな。まるで後光が差すようではないか。また、皇王陛下のご神託にも劣らぬ予言をくださるだろうか」
予言。神託。
彼らのすべての言葉がリュディガーには不吉でならなかった。
皇王と美しい少女は仲睦まじくささやき合う。そうして、皇王が高らかに声を張り上げた。
「選ばれし我が民よ。私が受けた神託により探し当てた偉大なる預言者ルイーズの先見により、悪の芽を摘む聖戦が行われている。けれど、案ずるな。悪は追い詰められ、ほどなくして戦は終えるであろう。我々には大陸の担い手として諸国を正しく導く義務があるのだ」
わぁあああ、と割れんばかりの歓声が上がる。その中で、やはり少女は美しく微笑んでいた。
そうして、その艶めいた唇がゆっくりと開く。
「皆さん、悲しい戦いの後には大いなる喜びが待つのです。力を合わせ、この戦いを乗りきりましょう」
ささやくように話したというのに、誰の耳にもはっきりと届く声だった。甘い響きに、人々は酔う。
あまりの熱気に、リュディガーの意識は遠退きそうだった。
もっともらしく言うけれど、ファールン公国との戦いに赴き、傷ついたのはナハト公国だ。宗主国は血の一滴すら流していない。
しかし、そんなことは誰も考えもしないのだろう。
皇王と、あのルイーズという少女に対し疑う心を持たない。
神格化というべきか、あの二人の言葉は人のそれではない。民にとっては神の言葉であるのだ。
その妄信を、リュディガーは空々しく、吐き気をもよおすほどの嫌悪感で見守っていた。
「……この場を離れるか」
エティがそんなリュディガーを支えつつ、歓声を背中にその場を去る。
ただ。
最後に見た少女の瞳が、大衆に紛れたリュディガーにしっかりと向けられた気がした。




