*35
リュディガーはフルーエティと共にファールンの城館へと戻った。父の寝室へ直接向かうと、ピュルサーが床に座り込んでいた。
ピュルサーは二人の姿を認め、素早く立ち上がってそばまで来る。そこで改めてひざまずいた。
「ありがとう。何か変わりはなかったかい?」
見下ろした金色の髪にリュディガーは問う。ピュルサーは静かに答えた。
「いえ、特には」
「そうか」
リュディガーは寝台の上で氷漬けになったままの父へと歩み寄る。その隣に座り込み、そっと父に触れた。ひやりとはするけれど、冷たすぎるということはない。本物の氷とは違うのだ。
悲しい、父の姿。それはリュディガーにとっての苦しみでもある。
「……これを解けとは命じるなよ」
フルーエティがそう釘を刺した。
命じれば、フルーエティは従うのだろうか。生きることに疲れたから、父の手にかかって死にたいと言ったなら――。
リュディガーは苦笑する。
「今は言わないよ。でも、この地に平和が訪れたその時には」
そう、まだ死ねないのだ。結局のところは。
今はまだその時ではないのだから。
ピュルサーはこの場で何かを感じていたかもしれない。リュディガーの体には死の臭いが染みついていた。
何も問わなかったけれど、複雑な、どこか苦悶にも似た表情でそこにいた。
そうして、朝が来た。
リュディガーは父の隣に横たわって朝を迎える。
ファールンの領主として忙しかった父だ。幼い頃でもこんなふうに隣で眠ったことは一度もない。
そうでなくとも、嫡男の公子という立場がリュディガーにはあったのだ。いかに幼いとはいえ、そのような甘えは許されなかった。
今になってこんな形で父と並んで眠ることに寂寥を感じるばかりだった。
体を起こすと、リュディガーの振動で父が揺れた。それは父自らの起こした動きではない。それがまた物悲しかった。
「リュディガー」
フルーエティの声に呼ばれ、リュディガーは首をもたげた。そうして、見たフルーエティの姿に、リュディガーは心をかき乱された。
「それは……っ」
フルーエティはいつもの研ぎ澄まされた美しさとも、それを人に近づけた姿でもなかった。紛れもなく人の姿ではあったけれど――人間である、リュディガーの父そのものにしか見えなかった。彼は黒い短髪をかき上げた。
「姿など、俺が見せているにすぎない。見せたい姿を模ることも可能なのだ」
軍服ではなく、社交場に赴くような藍のジュストコールに象牙色の煌びやかな刺繍が施されていて、リュディガーにも見覚えがあった。それは父の持ち物にあった柄である。
どう見ても父にしか見えない。その姿で優しく微笑めば、それだけで真実味を増す。
今は動くことも語ることもできない父の代わりに、フルーエティは父の姿で家臣に不審がられぬように手を打とうというのだろう。
「俺がお前の大事な父の姿を模すことは我慢ならないかもしれぬが、少しの間は我慢しろ」
大事な父。けれど、だからそこ、フルーエティだけならば許せるという気もしたのだ。
リュディガーはゆるくかぶりを振って微笑んだ。笑ったようには見えなかったかもしれないけれど。
「いや、お前は父を貶めるような振る舞いはしないでいてくれるだろう」
それを疑いもなく信じている。
「……まずは体調が優れぬとでも言ってこの現状を維持し、一日の猶予を作る。その間に宗主国へ行くぞ。覚悟を決めておけ」
父の姿で、フルーエティは淡々と言い放つと、裾を翻して部屋を出た。
音もなく朝日が差し込む部屋の中でピュルサーがポツリとつぶやく。
「宗主国ですか。俺たちもお供させて頂けますか?」
「いや、少し覗いてくるだけだから、もう少しだけここで待っていてほしい。ピュルサーには留守番ばかりさせてすまないね」
でも、とリュディガーはつぶやいた。
「戻ったら、きっと忙しくなる。だから力は温存しておいてほしいんだ」
金色の目を瞬かせるピュルサーに、リュディガーは穏やかに微笑む。
「そう、忙しくなるんだ。この退屈は最後になるよ、きっと――」
戦いの終結。そこへ向かうための戦いをしなければならない。
血で血を洗うのだ。それはひどいものになるのだろう。
けれど、すべてが終わったら、父をこの氷から解放して自分は姿を消す。魔界から父を見守り、父の窮地の時にだけ介入して生きていけばいいだろうか。ティルデがいない今、自分のすべきことはそれくらいしか思いつかなかった。
父の姿をしたフルーエティが程なくして戻った。部屋に入るなり変化を解く。
青味を帯びた銀髪をサラリと揺らし、フルーエティは言った。
「宗主国の都へは俺とお前だけで行くぞ。ファールンの公都奪還の報が各地に知れ渡ったのなら、メルクーアなどからの進軍も警戒しなければな。三将を護りに置いていく」
「……ああ」
メルクーア公国にいる母。
いつかは対峙せねばならぬとして、その時、一体どういう言葉を吐くべきなのだろうか。
それが、リュディガーには皆目見当がつかないのだ。どんな顔をして、何を言えばいいのか。
父はこんなにも苦しんでいる。それをわかってほしいと思うけれど、母は父を愛しているわけではないのだろう。母はきっと、誰のことも愛していない。そうした性質の人なのだ。
腹を痛めて生んだはずの息子さえ、母には必要とされなかった。
フルーエティの嘆息が聞こえた。
「とりあえずは城下町へ向かうとするか。宗主国の中枢の護りは強固だろう」
宗主国は神の国。
いかに上級悪魔のフルーエティであっても、破魔の結界などがあれば潜入は容易ではない。そうしたものが事実あるのか、神の国などというのは民衆にもっともらしく思わせるためだけの虚偽なのか。
すべては赴いた瞬間にわかるだろう。
まだ幼かった自分は、皇王に謁見することも宗主国へ赴くこともなかった。父も十を越えた頃にはと考えていたのだと思う。
それがこんな形で向かうことになるのだから、人生とはわからないものだ。
そこに待つものがもし本当に神だとするのなら、こんなにも穢れた自分には神罰が下るのだろうか。だとしても、恐ろしくはない。
罰せられるべき人間のすべてを罰しなかった神などいないも同然だ。
宗主国で待つ者はそうした神々しい類のものではなく、欲に塗れた只人なのではないだろうか。
この戦の根源。
リュディガーからすべてを奪った戦いを引き起こした者。
キルステンに突き立てた刃とは比べるべくもない、腹の底からの憎しみを込めて、その心臓を貫いてやろう。
そうしてこの戦を終わらせるのだ。




