*30
抱き締め続ける彼女の体が硬く冷たくなっていく。認めたくはないけれど、死臭というものもするのだろう。
何故、彼女が死なねばならなかったのか。何故、殺されたのか――。
そう考えて、リュディガーの涙と嗚咽とがピタリと止んだ。
殺された。そう、殺されたのだ。
殺した相手がいる。この細い首を絞めた相手が。
それに思い至った瞬間、リュディガーの中で何かがカァッと熱く燃え広がるようだった。父のように、殺すことで相手を救おうとしたとは思えない。ただ殺したかったのだ。そこには快楽すら存在したかもしれない。
「リュディガー」
ずっと押し黙っていたフルーエティが静かに声をかけた。
「その娘は蘇らない。そうしていては骸が傷むだけだ。氷によって永遠に保つか、炎で灰にするか、好きな方を選べ」
氷で体を保ち続けたところで、魂は戻らない。それを眺めて過ごすのはただの自己満足だ。クルクルとよく動く表情も、歌声も、熱も――欠けたものばかりを追ってしまう。
「……灰にして、やって、ほしい」
変わり果てた姿をいつまでもさらし続けることは、ティルデにとって苦痛でしかないと思えた。死に顔を留めておかなければ、思い起こす顔は朗らかな笑顔であってくれるだろうか。
その返答を聞いた時、フルーエティはほっとしたように見えた。
「わかった」
リュディガーは草の上にティルデを下ろす。最後に髪を撫で、冷たい唇に口づけた。悲しみは、徐々に心を蝕んでいく。
ティルデから離れると、フルーエティは指先から小さな火をティルデに向けて放った。その火は一瞬で燃え盛り、ティルデの体を巻き上げて火柱となる。
その熱気にリュディガーは目を細めた。涙はもう枯れたのか、出てこない。熱気に肌がピリピリと乾いた。
火柱が消えた後、キラキラと舞い散る灰を全身で受け止める。そうすることで、何時いかなる時でもティルデと共に在れるような気がした。そばにいてくれる、そう思うことで今はまだ立っていられるのだ。
リュディガーはフルーエティに背を向けたままでつぶやく。
「アケローン川へ向かおう。その後で、私にはやるべきことが増えたようだ」
はっきりとした声でそう告げた。握り締めた拳には何も残されていなくとも、やるべきことはまだあるのだ。
彼女はもういないけれど、それでも生きる。それを選択した。
「……娘を殺した相手に復讐するのか」
やはり、フルーエティに隠し事はできぬようだ。リュディガーは泣き腫らした目元で、それでも驚くほど晴れやかに笑ってみせた。
「当たり前じゃないか」
ティルデがどんなに恐ろしい思いをし、苦しんだことか。
それ以上の目に遭わせてやらなければ帳尻が合わない。善良な人間だけが苦しむなんて、そんなことがあってはならない。
リュディガーの言葉に、フルーエティはほんの少し顔をしかめた。何故そんな顔をするのか、リュディガーには不可解であった。
「さあ、魔界へ戻ろう」
フルーエティは小さく息を吐いて、無言のままに魔法円を描き出した。その門を潜り、リュディガーは久方振りに魔界へ赴くのだった。
色々なことがあった。護りたいものは護りきれなかった。
そんな自分に何が残されているのか、何ができるのかをリュディガーは自問した。
門を潜って出た先はフルーエティの屋敷のそばであった。
「リゴールを呼んでくれ。すぐにでもアケローン川に向かうんだ」
今の自分を突き動かすものがなんなのか、リュディガー自身にもわからなかった。それでも、動いていなければならないような気がするのだ。
フルーエティは穏やかに言った。
「少し休め。後のことはそれからだ」
食事も睡眠も十分とは言えない。けれど、父もティルデもそうしたこととは無縁の状態である。自分のためにそれらをすることが、ひどく虚しく思えた。
「いや、私なら大丈夫だ」
何も要らない。ほしいものがあるとすれば、それは――。
「いいから、休め」
フルーエティは語調を強めた。そんな彼にリュディガーの方が失笑してしまった。
「どちらが主だかわからないな?」
クスリ、と笑いが零れる。どうして今、自分が笑うのかもわからない。悲しみが心を麻痺させ、笑うことで自分を騙そうとしているのか。
理由までは考えたくもない。ただ、笑い声が零れる。
そうしていると、リュディガーを見つめるフルーエティの表情が翳る。
「お前は今、自分が思う以上に疲れている」
疲れてはいる。
けれど、だからどうだというのだ。
「……あの娘を殺した相手に報復するというのなら、休め。その様子だと持たない」
それを言われて初めて、リュディガーはああ、と納得した。
「そうか。そうだね。わかった、休ませてもらうよ」
急に途絶えたふうに見えた道のりが、ほんの少し先まで見えた。そんな気分だった。
フルーエティはやはり苦々しい面持ちになった。休むと答えたのに、まだ何かを言いたげである。
けれど、リュディガーはそれ以上会話を続けなかった。フルーエティに背を向け、そうして魔界の風を受けながら崖の上を歩いた。屋敷までの短い道のりを歩くのに、思うことはたくさんあった。そのひとつひとつを整理するのはまだ無理なことだけれど。
まずはひとつ。
あの指揮官の男に話を聞く。そうして、その次にはティルデを殺した相手を捜し出す。
その後のことをリュディガーはおぼろげに描き始める。
まだ、やるべきことは多いようだ――。
フルーエティの屋敷で湯浴みをし、その後、部屋でリュディガーは横になった。感情は昂っていたけれど体は限界だったのか、気づけば眠っていた。夢は見なかった。
どれくらいの時間眠っていたのかはわからないけれど、リュディガーは目覚めてから食事も取った。要らないと思っていたのに、ひと口食べたらすんなりと食べられた。胃に落ち着いた食物はそのまま戻すこともなかった。
あれだけの出来事が一度に押し寄せてきたというのに、自分は意外と落ち着いている。そのことをリュディガーは意外に思った。
現実味がないというわけではない。あれらはすべて本当に起こったこと。
だからこそ、受け入れるしかないのだ。逃げる場所はどこにもない。どこへ逃げても悲惨な現実は追ってくる。
その現実に、どう報いていくか。
そうだ、生きることは奪うこと。奪わなければ生きられない。
それを理解できていなかったからこそ奪われたのだ。
ひっそりと慎ましく生きるなどと、そんなものは夢想であり、弱者は現実に蹂躙されるさだめだったのだ。




