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「リュディガー」
美しく、それでいて力強く人を魅了する、そんな声が彼を呼んだ。けれど彼には聞き慣れた声である。
反り立った崖の上、彼は少しの恐怖も感じることなくそこにいた。
赤黒い岩肌の高みから、リュディガーと呼ばれた青年はこの異界を見下ろす。薄暗く、どす黒い雲だけが渦巻いている狭い空の下、生ぬるい風が彼の鼻先をかすめた。その風の音は時折、亡者の叫びのようにも聞こえる。
「エティ、私に何か用か?」
特に表情らしきものも浮かべずに振り返る。
その声も、その姿も、在りし日の面影はあれど、幼さは幾分薄れた。
リュディガーは今、自分がいくつなのかも正確には知らない。この場所は地上のように四季も昼夜もない。時の流れという感覚の薄い場所であった。
あの日。
悪魔の手を取ったあの日。
リュディガーは気づけばこの地にいた。
ここは俗に言う悪魔の世界。魔界であると悪魔――フルーエティは言った。
「俺の力を使役しようというのなら、まずは契約を交わすことだ。さあ、唱えろ」
フルーエティはリュディガーの小さな右手をしっかりと握り締め、怯える瞳を覗き込む。
「な、何を」
「汝――」
「なんじ……」
「ヴァルター・フルーエティ、我と契約せん」
「ヴァルター・フルーエティ、我と契約せん」
「我を主とし、我が命尽きるまで我を護り、我が力となれ」
「我を主とし、我が命尽きるまで我を護り、我が力となれ」
「我が名は――」
「我が名はリュディガー・フリードハイム」
悪魔に繋がる手がカァッと熱くなった。焼き鏝を当てられたように熱く疼き、リュディガーは悪魔の手を振り払うと思わず叫んでいた。
そんなリュディガーを、悪魔の方もかすかに眉を顰めて眺めた。そうして、黒一色の体に沿った衣を開き、片肌を見せる。
その胸元に刻印があった。血のような色をした小さな魔法円と文字が刻まれている。けれどその文字は鏡写しの古代文字である。リュディガーは涙の滲む目で、疼く自分の手の平をおずおずと見遣る。
そこには黒い魔法円と星を示す紋様が刻まれていた。リュディガーに解読することはできなかったけれど、それがこの悪魔を指すものであるのだと、ほぼ確信するようにして思った。
「お前の手の平と俺の胸にあるこれは『契約の印』と呼ばれるものだ」
「契約の……」
リュディガーが呆然とつぶやくと、フルーエティは小さく首を揺らした。
「これでお前は俺の主となった。お前を護ることが俺の役割でもある」
公子としてたくさんの家臣にかしずかれながらリュディガーは生きてきた。けれど、悪魔の主になったなどと言われても、素直にこの悪魔を下僕とは思えない。
「どうして……」
どうして、母でさえも見放した自分をこの悪魔は護ると言うのか。
心を読む悪魔はクスリと笑った。
「俺たち悪魔は強い力を持つが、それを縛り使役する人間も確かに存在する。ただ、こうして他者と契約を交わした悪魔との二重契約はできん。俺はこうしてお前という主を持った以上は、くだらん人間に呼び出されて使役されることはないというわけだ」
他の人間に使役されないために、適当な主を見つけて契約を済ませたかった。そういうことなのか。
現実に打ちのめされて覇気のないリュディガーならば、フルーエティを振り回すこともないと。醜い人の世に関わらずこの魔界で自由に過ごすこともできるだろう。
自身の自由のためにフルーエティはリュディガーに手を差し伸べた。
けれど、腹も立たなかった。
誰も彼もが自分の利益のために人を利用する。悪魔も人もその点では差がない。
そんなリュディガーの諦観にフルーエティは眉根を寄せた。
「ひとつだけ言わせてもらうが、契約をした以上、お前の望みは叶えてやる。裏切りの罪を犯したお前の母やヴィーラントに罰を与えたければ、魔界の嘆きの川に浸して苦痛を感じさせたまま氷漬けにしてやろう。窮地の父を救いたければ我が軍勢を使って敵兵を根絶やしにしてくれる。さあ、お前は何を望む?」
裏切りに罰を。
そんなもの、下すのは自分ではない。神が裁くことなのだ。悪魔の手を取った今もそう思う。
悪魔の手を取ったのは、戦い死に逝く民を見ていられなかったからだ。だとするのなら、祖国の父を助けるべくこの悪魔に命ずるべきなのだろうか。
そう考えて、リュディガーは躊躇った。
悪魔の手を借りたリュディガーを、それでも息子と思ってくれるだろうか。
母に見放された今、父に汚らわしいものを見るような目をされた日には、自分はこの世界の終わりを願わずにいられるだろうか。
言葉に詰まったリュディガーに、フルーエティは言った。
「この魔界はお前の世界である地上とは切り離された世界だ。過ごす時でさえ同じではない。だからお前が引き渡されたあの時へ戻ることもできるし、それ以降の時間へも行ける。『お前が同時に存在していない時間』へならばお前を運ぶことは可能なのだ。極端な話、お前が生まれる前の地上へもな」
フルーエティの言葉をすべて飲み込むにはリュディガーはまだ幼すぎた。悪魔は焦らずに嘆息する。
「お前はまだ幼い。せめて自分の行いを、その先を決められるほどに成長してから答えを出せ」
それから、とフルーエティはつぶやく。
「ひとつだけ言っておくが、俺はお前が凡庸で無害な人間だから主にしたというわけではない」
「え?」
ゾッとするような美しさでフルーエティはさも可笑しそうに笑ってみせた。けれど、その目は笑んではいない。射るように鋭く、静かに揺らめく炎のようだった。
「退屈な自由なんぞいらん。お前には波乱のにおいがする。上級悪魔六柱が一、このフルーエティの主として動乱を生きる器だと俺が認めたのだ。精々楽しませてもらおう」
悪魔にとっては戦いの渦巻く気は心地よいものであるのだろうか。憎悪、悲嘆、絶望、人間が抱くそうした感情が愉悦であるのかもしれない。
それでも、悪魔の手を取った以上、後には引けない。この命が尽きない限り契約の解除などできないと、リュディガーは頭のどこかで感じた。
だとするのなら、自分はどうすべきなのか――。
リュディガーはひとつのことを心に決めた。
「悪魔」
「それは名ではないな」
「……フルーエティ」
「なんだ?」
「私の願いは決まった」
「そうか」
父と祖国を救う。
そのために今は歯を食いしばり、泥を啜って生きてみようと決めた。そう決めた途端、あんなにも簡単に一度は命さえも諦めたことが嘘のように感じられた。
まずはこの地で力を蓄える。それがリュディガーがまずすべきことである。
「そうだな、今のお前はあまりに頼りないからな。少し鍛えてやろう」
フルーエティがそんなことを言う。
リュディガーは随分と上にあるフルーエティの顔をキッと睨みつけて言った。
「まず、主として命ずる。私の心を読むな」
すると、フルーエティはそんなひと言を嘲笑った。
「心を読まれるのはお前が弱いからだ。読まれたくなければ心を強く持て。必要なのはそれだけだ」
言い返せもせず、リュディガーは歯噛みする。
そんな幼い主をフルーエティは満足げに見下ろしていた。