*28
「つらかっただろう? ……すまない。本当にすまなかった」
熱く、感情に揺れる声だった。
「護ってやれなくて、すまない……」
リュディガーの体が軋むほど強く抱き締めていた父は、その長い抱擁の後にそっと体を離した。そうして、リュディガーの肩に添えた手を滑らせる。
「と――」
剣を握り続けた父の硬い手の平が、リュディガーのまだ柔らかく細い首を包み込んだ。グッ、と指先に力が込もり、そのまま後ろに体重がかけられる。
強い力に息が詰まった。声が出ない。ただ、霞む視界で見上げた父の顔からは止め処ない涙が溢れていた。
「私の大切な子……。お前はもう苦しまなくていい。お前の罪は私が受け取る」
ポタリ、ポタリ、と涙がリュディガーの顔にかかる。呼吸のできない苦しさよりも、父の苦悶の表情に痛みを感じた。
「この子は、親に、命を奪われた、憐れな魂。その罪をどうか、減じてくださいますように。その罪は、子殺しの我が身に、降り注ぎますよう、に」
切れ切れの、祈るような言葉が耳に届く。
父は、リュディガーを手ずから殺すことで救うつもりなのだ。
お前など息子ではないと拒絶するのではない。すべてを受け入れてくれたからこそ、愛情が深いからこそ、この方法を選んでくれた。要らない子だと打ち捨てるのではない。リュディガーの罪を肩代わりするつもりで――。
そんな父を責める気持ちにはなれなかった。むしろ、その心に感謝した。
この命は幼い頃に散るはずであったのだ。父の手にかかるならそれは悲しいことでない。
父の愛を感じながら逝けるのならば――。
「女神ロレよ、どうかこの子に、慈悲を垂れて――」
父の祈りの声はキィン、と甲高く鳴った音で遮られた。それが何であったのか、リュディガーにはわからなかった。ただ、喉に食い込んでいた父の指から突如力が抜け、その指は氷のように冷たく感じられる。
急に空気が通り出した喉では上手く呼吸ができず、ひたすらにむせて涙が零れた。ゴホゴホと咳き込んでいると、冷ややかなフルーエティの声が割り込む。
「お前はすぐに自分の命を諦める。その癖はいつになったら直るのだ?」
どうやら、またしてもフルーエティに助けられてしまったらしい。ゆるんだ父の指が首から外れる。その途端、父の体はそのまま寝台へと倒れた。
「っ!!」
とっさに声もでなかった。倒れ込んだ父の体は分厚い氷に覆われていた。リュディガーから離れた瞬間に、指先までもが凍りつく。氷に閉ざされた父は、最後に見た苦悶の表情のままである。
「父様!!」
凍った父の肩に手を添える。けれど、リュディガーの持つ熱では少しも溶けることがなかった。氷というよりもまるで水晶のようでもあった。これはただの氷ではない。これはフルーエティの魔力の結晶なのだ。
「エティ! なんてことをするんだ!!」
リュディガーが半狂乱で振り返った先にいたフルーエティは、いつもと変わらず平然と腕を組む。
「主の生命の危機だ。仕方がないだろう? まあ、殺したわけではない。仮死状態で眠っているようなものだ」
「それなら解け。今すぐにだ!!」
ふらつきながらもリュディガーは立ち上がってフルーエティに詰め寄った。キッとフルーエティを睨みつけるけれど、彼が怯むことなどない。リュディガーの首に残った生々しい指の跡を一瞥して嘆息する。
「解けば、お前の父はまたお前を殺そうとするだろう。この部屋はしばらく封印しておく。お前は今、ここで腑抜けている場合ではないはずだ」
アケローン川のほとりで、死んだ指揮官の男を問い詰め、この戦を終わりへと導かなければならない。まだやるべきことは多く残されているというのか。
すると、フルーエティは呆れた様子だった。
「そうではない。あの男のことなど、お前にとってさほど重要ではない。お前が父のことが最優先だと言うからしばらく待ったのだ」
フルーエティが心を読む。リュディガーは奥歯を噛み締めて唸るように言った。
「では他になんだ?」
心が、喜びと悲しみの波にさらされて鈍くなった。重要なことなど、今この場所で父以外には考えられない。そんなリュディガーを、現実は嘲笑うかのようだった。
「あの娘が敷地の外へ出た。止めに向かった方がよいのではないか?」
キュッと心臓をつかまれたような痛みが走る。瞠目したリュディガーを気遣うどころか、フルーエティは傷口に塩を塗り込むようなことを言い放つのだ。
「もうあの娘のことなど忘れたというのなら、このまま打ち捨てておけばよい。けれど、そうでないのなら――」
「忘れてなどいない! ティルデは私にとって掛け替えのない女性だ!」
そう想う心に偽りはない。なのに、それを誇れない。
フルーエティはそんなリュディガーの心を見透かすのだった。
「お前は先ほど死んでもいいと思ったのだろう? それはあの娘への裏切りではないのか?」
共に過ごせる時を、場所を手に入れると口にした。
けれど、怒涛のように押し寄せる戦いの中で、彼女のことをどれだけ想っただろうか。
目の前で繰り広げられる現実に向き合うことで精一杯だった。父を助け、国を救うことしか頭になかった。たくさんの安らぎをくれた彼女を気に留めるゆとりがなかった。
あの寂しい場所で独り、彼女は不安と戦っていたかもしれないのに。そのことに気づいてやれなかった。
父の手にかかるなら死んでもいいと、それはひどく身勝手な決断だ。待っていてほしいと言っておきながら、迎えに行くことをしないのなら、それは嘘と変わりない。大事な彼女には誠実であるつもりが、実際はどうだ。
リュディガーは自分の不甲斐なさに愕然とした。
色の抜けた唇を震わせながらつぶやく。
「エティ、連れていってくれ。ティルデのところへ……」
長く来られなくてすまなかったと謝らなければならない。ティルデは赦してくれるだろうか。
非難されてもそれは仕方のないことだ。赦してもらえるまで謝り続けよう。
リュディガーはチラリと寝台に横たわる父を見た。胸が痛むけれど、今はこのままで待っていてもらうしかない。ティルデを連れて身を潜めたらフルーエティに頼んで解放してもらおう。
そうして、もう二度と会わない。
残りの人生はティルデに捧げよう。
リュディガーはそう決心した。
「――ピュルサー」
突然フルーエティはピュルサーを呼んだ。リゴールとマルティはアケローン川に向かってもらっているので、地上に残っている配下の中で一番信頼の置ける相手がピュルサーではある。
「はっ」
ピュルサーはどこからともなく現れると二人の前にひざまずいた。そんな彼にフルーエティは抑揚のない声で命じる。
「少しこの地を離れる。この部屋は封印しておいたが、念のためここで見張っていろ」
「御意のままに」
ピュルサーがそう答える。フルーエティはこれでいいだろう、と目で語るようだった。
リュディガーは力なくうなずいた。
「頼むよ、ピュルサー……」
「お任せください」
重苦しい心を抱えたまま、リュディガーはフルーエティに顔を向けた。フルーエティは魔法円を描き出す。
ティルデに会うというのに、気持ちは晴れないままだった。
いつか、疲弊した心を癒してくれた時のように、すべての苦しみを吹き飛ばすほどの笑顔を彼女に望むのは、本当にどうしようもなく勝手なことだ。けれど、それが見られたらもう他には何も望まない。
今のリュディガーにはそれだけが救いだった。




