*27
父がバルコニーから引いてすぐに、城館の中は兵たちによって片づけられた。ナハト軍との戦いの跡を消し去るのなら、フルーエティに頼みさえすれば一瞬で済む。
けれど、父は人間たちのことであるからと言って、そのすべてを人の手で行った。血の染みも臭いも完全には拭い去れない。それでも、人が行うことを選ぶのだ。
悪魔の力を頼みにしすぎることを恐れたのだろうか。
人は次第に慣れてゆく生き物だから。
慌しく時間が過ぎ去る。夜は間もなく訪れようとしていた。
リュディガーは心を静めるため、夕暮れ時に城館の天文台である小塔の屋上にいた。そこから空を見上げ、日が沈むのを待った。父の体が空くのは日が沈んでしばらくしてからになるだろう。
そんなリュディガーの背に、不意に現れたフルーエティが言った。
「おい、今のお前にとって最優先事項はなんだ?」
「え?」
どうして突然そんなことを問うのか、リュディガーにはわからなかった。不思議に思いながらも正直に答える。
「何って、父様のことだけれど……」
フルーエティはそうか、とつぶやいた。
「では、お前が父親と話を終えるまで他の件は後に回そう」
「うん、そうしてくれ」
と、リュディガーはうなずいた。
アケローン川のほとりであの指揮官の男を捕まえたとでもいうのだろう。けれど今、余分なことは考えられそうもない。
フルーエティはそのまま去った。去ったというよりも、姿を現さないだけで近くにはいるのだろう。こうしてリュディガーの意思を尊重してくれるのはありがたかった。
夜が更け、父が就寝する頃になるまでそのまま待った。今は食事もほしいとは思わない。
そろそろかと感じたリュディガーは天文台から降りると、父の寝室へと向かった。
寝室の前には番兵が二人いた。この大事な時期だ。暗殺にでも備えているのだろう。
けれど、悪魔たちも目を光らせてくれている。父の身に不安はない。
その悪魔たちを信頼しているわけではないから、番兵を立てるのかもしれないが、もしそうならたった二人で防げるはずもない。あまり意味がある役割ではなかった。
「フリードハイム卿に所用があります。ご就寝前に申し訳ありませんが、お目通りを願います」
番兵たちにというよりも、奥にいる父に向けてリュディガーは言った。番兵たちが戸惑いつつ顔を見合わせていると、部屋から父の声が返った。
「ルトガー殿か。入られよ」
夜更けに、いとも容易く悪魔の主を招き入れる。番兵たちの表情に警戒の色が浮かんだ。
けれど、父は手ずから扉を開いてくれた。ガウンを羽織りくつろいだ様子の父は、番兵たちに言う。
「しばらく人払いをしておいてくれ。私はルトガー殿と大切な話がある」
「し、しかし……っ」
「下がれ」
普段は穏やかな主君に厳しく言われてしまえば、諫言することもできず、番兵たちは下がった。リュディガーは父が真剣に向き合うつもりでいてくれることを嬉しく思った。
「これでよかったのだろう?」
「ありがとうございます」
頭を下げると、父はリュディガーを中へ誘う。
寝室は急ぎで整えられたわりには、以前とあまり変わりがなく見えた。
リュディガーが奥へ進むと、父は扉を閉めた。そうして、ビロードの天蓋のついた寝台まで歩み、その縁に腰かける。そこから父はまっすぐにリュディガーを見据えた。
「さあ、話を聞こう」
「はい……」
ドクリドクリと、リュディガーの鼓動が父にまで伝わるのではないかというほどにうるさく感じられた。体中の血が沸き立ち、指先が震える。
リュディガーはようやく意を決してフードを取り払った。パサリ、とフードが肩口に落ちる。
少し紫がかった黒髪と碧眼。その顔立ちに母に似た面影を見つけてくれるだろうか。
父はハッと目を見張った。
けれど、年齢が違いすぎるせいか、息子と結びつけることはなかった。
「……私は誰かに似ていませんか?」
そうつぶやいてみる。すると、父は極度に緊張した様子だった。
「それは――」
切れた言葉。リュディガーは黒髪を揺らしてうなずいた。
「ルトガーというのは偽名です。私の本当の名はリュディガー・フリードハイム。……私はあなたの息子なのです」
ヒュッと父が息を飲んだ。その双眸は瞬きを忘れ、正面のリュディガーにただ向けられている。
覚悟を決めたものの、次に父の口から飛び出す言葉が恐ろしくて、リュディガーはその瞳から逃れるようにしてうつむいた。そうして早口で身の上に起こったことを語るのだった。
「……メルクーア公国に逃れた後、私はヴィーラント卿の裏切りにより待ち伏せしていたナハト軍の手に落ちました。けれどその時、フルーエティが私に手を差し伸べてくれたのです。そうして契約をすることで私を窮地から救ってくれました。その後、時の流れの違う魔界で過ごしていたのです。そうしてようやく、父様の助けとなれるほどに力をつけ、駆けつけました」
父は無言のまま、リュディガーの言葉を遮らなかった。
始めた以上、もう後には引けない。リュディガーは必死で語った。
「それでも、私が悪魔の手を取り、契約を交わすという大罪を犯したことに変わりはありません。息子だなどと名乗るのも赦されぬことでしょう。けれど、父様と祖国を救いたかった、その心だけはどうか疑わないで頂きたいのです。父様がおぞましいとお思いなら、二度と姿を現すことは致しませんので、どうか――っ」
声がかすれた。感情が抑えきれなくなる。
口に出した言葉ほどの覚悟が、本当に自分にあるだろうか。おぞましいと突き放された瞬間に、絶望せずにいられるほど、自分は強くなどない。
どこかに希望と甘さを残す。それをリュディガー自身が感じ取って、脆弱な自分を恥じた。ぐっ、と胸の辺りに拳を当てると、父の穏やかな声がした。
「……ルーツィエはどうしたのだ?」
できることならば知らせたくないけれど、それを語らないわけにもいかないようだ。
リュディガーはうつむいたまま、ポツリと零す。
「ヴィーラント卿のもとに。けれど、無理に奪われたわけではありません。私もあの時に別れて以来、一度もお目にかかってはおりませんが」
父は、そうか、と短く言った。けれど、あれだけ案じていた妻子の現状に心が悲鳴を上げていないはずがない。色々なことが申し訳なくて、リュディガーはその場でどうすればいいのかわからなくなった。
けれど、父はリュディガーが驚くほどに力強い声を出した。
「リュディガー」
名を、呼ばれた。
たったそれだけのことに、リュディガーは頭を殴られたような衝撃を受けた。瞬時に顔を上げると、正面の父は優しく微笑んでいた。その顔を見た途端、リュディガーの視界は涙でぼやけた。
父は穏やかに言ってくれた。
「ここへ座れ」
トン、と寝台の自分の隣を叩く。
「は、はい!」
リュディガーは慌てて、飛びつくようにして父の隣に腰を下ろした。父は至近距離でじっくりとリュディガーを眺める。そうして、そっとその頬に手を伸ばした。サラリ、と髪に触れる。リュディガーはそれをこそばゆく感じた。
「……そうか、あの子がこんなふうに育ったのだな。お前にはつらい思いをさせた。それなのに、この父を助けに戻ってくれたことに感謝する。お前はこの乱世には気の毒なほどに優しい子だから……」
リュディガーは、自分を見つめる父の瞳も自分と同じように潤んでいることに気づいた。
「私を汚らわしいとはお思いになりませんか? 私は、禁忌を犯しました」
声を震わせるリュディガーを、父は力強く抱き締めてくれた。そうして、その首筋で涙を流しながら父は言った。
「お前の罪は親として私が引き受ける。お前は何ひとつ悪くない」
フルーエティの言葉を疑うわけではない。
けれど、この瞬間になってようやく、はっきりと父の愛情を感じ取ることができた。
それはすべての苦痛を消し去るほど、リュディガーに与えられた何よりの褒美であった。




