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悪魔の軍勢から、人に似た姿を取れる者を厳選した。
フルーエティはもちろんのこと、三将も髪や瞳の色は多少変わっているものの、遠目にはわからないだろう。
フルーエティに頼み、リュディガーは三将を砦のそばの山道に召集する。事情を説明すると、三将はすぐに呑み込んでくれた。
「魔法は禁止ですかぁ? うーん、まあ脆弱な人間相手ならどうとでもなりますけどね」
と、マルティはそれでも楽しげだった。
「じゃあ俺も体を変えないようにします」
少年の姿をしたピュルサーが急に獅子になっては、人間ではないことがすぐにわかってしまう。
「私ども三将がいれば並の人間は蹴散らせます。ご心配召されませんように」
皆、不満を口にせず努めてくれる。リュディガーは申し訳ない気持ちにもなった。
「わがままを言ってすまない。けれど、どうか頼む」
契約という縛りがあるせいか、彼ら悪魔はリュディガーを裏切らない。少なくともリュディガーはそう信じている。
人間の方が簡単に、それは容易く相手を裏切るのだ。
そんな人間たちが悪魔を悪しき存在と蔑むのだから、知らないということは恐ろしいものだと思う。リュディガーもこうした立場に追いやられなければ、大多数と同じように正しいのは自分たちだけだと思っていたことだろう。
現在地は山岳のトゥルム砦だ。そこから公都へ向かうなら、アイデクセ平野を北へ進む必要がある。リュディガーたちが壊滅させた駐屯地は東側であったけれど、そちらではなく北へ突っ切る。
平野の北にもルイーネ砦という要塞があるのだが、そこはすでにナハト軍に占拠されている。キルステンの裏切りに遭ったのはこの辺りでのことだろう。リュディガーも幼少期に落ち延びる際、通過した場所だ。
現在、ファールン兵の数は百を切るほどであった。けれどそこに悪魔の軍勢が加わり、三百ほどには見えた。
篭城で飢えていた兵は、フルーエティが出したナハト軍の糧秣で空腹を満たし、体力を取り戻していた。悪魔の与えたものなど喰えたものではないと言い出す兵はいなかったのだ。空腹は、それほどまでに苦しく耐え難いものである。階級の低い者ほど極限を迎えていた。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、矜持や志を打ち捨ててでも食糧がほしいと願うことが恥ずべき行為だとは言いきれない。それは生きようとする意志である。
念のため、トゥルム砦には悪魔兵を数名残してある。例えばメルクーア公国などからの奇襲があったとしても、すぐにフルーエティが察知して未然に防ぐことができるだろう。
進軍するにあたって、馬は貴重であった。父は黒毛の逞しく筋肉のついた軍馬に跨り、それよりも少し穏やかな目をした葦毛の馬をリュディガーに貸してくれた。フルーエティはその手綱を引きながら歩く。
馬上でリュディガーは恐る恐る父に訊ねた。
「……ルイーネ砦からトゥルム砦に退いたのでしょう? その時のことを少し教えて頂けませんか?」
父はああ、と小さくつぶやいた。その顔が悲しげに見えたのは、キルステンの裏切りを思い起こしたせいかもしれない。
「兵の裏切りに遭ってな。あそこを捨てて退くしかなくなったのだ。その時、長年仕えてくれた側近を亡くした。命懸けで私を逃がしてくれたのだ」
切ない声が平野に抜ける。
ドクリ、とリュディガーの心臓は強く脈打った。体中の血が沸き立つ。
「裏切り者とは……?」
訊ねるまでもない。
キルステン。
その側近こそが父を裏切った。
死した今も尚、その魂は主君を裏切った咎により魔界の嘆きの川で苦しみ続けている。
けれど――。
父は知らぬのか。あの者の裏切りを。
「その側近の部下が間者と成り果てたようだ。だからこそ、責任を感じた我が側近キルステンは敵兵の中に斬り込んでいったのだ。そうして――こちらの間諜の情報によると、ルイーネ砦の前に首級をさらされていた、と……」
悲しげに、苦しげに父はそれを言う。
違う。あの男は父を裏切り、敵に下ろうとしたのだ。
卑しいその行いを父は知らず、キルステンが父の美しい思い出の中に存在するのかと思うと腸が煮えそうだった。
思わず口を開きかけた馬上のリュディガーを、フルーエティの冷徹な瞳が見上げていた。何かを語るわけではない。けれど、自分の言葉を後悔するなとでも言うような――。
真実を告げたい。
そうすれば、父はキルステンを誇りもしなければ、憐れみもしないだろう。
しかし、それと同時に、父の胸には憎しみが湧き水のように溢れるはずだ。
それが本当に父のためになるのだろうか。長く仕えた側近であるからこそ、父にはよりつらい現実なのではないだろうか。
知らずにいられるのなら、知らない方がいい。そうすれば、ただでさえ心労の多い父にさらなる負担をかけずにいられる。
そんなふうにも思えて、リュディガーは結局、何も言えなかった。
「そう、でしたか……」
キルステンへの罰ならば、リュディガーも下したのだ。
もうよい。もう、キルステンのことなどよいのだ。
今は目の前の戦いに目を向け、勝利を勝ち取れば、それで――。
「――さあ、そろそろルイーネ砦が見えてきた。向こうからもこの軍勢が見えるだろう。戦いの時は近い。ルトガー殿、フルーエティ殿、どうか力を貸してほしい」
「もちろんです」
フードを目深に被り、未だ顔をさらせないままであるけれど、それでも精一杯にうなずいてみせた。
黒い砦の外壁が見え、先発の騎兵が平野に姿を現した。兵の黒い軍服はナハト軍の証である。そのうちの一人が何やら口上を述べているけれど、そんなものに価値はない。彼らは侵略者なのだ。
穏やかに治められていたファールン公国の地を蹂躙した以上、彼らの正義はこちらにとっての悪である。
リュディガーは、今まで出したどんな声よりも低く、腹の底から搾り出すような声でナハト軍の騎兵に言った。
「無益な戦によりファールン公国の地を穢した以上、相応の覚悟はできているのだろう。我らは祖国を奪還する。それを遮るつもりならば向かってくるがいい」
父は黙って聞いていた。父の心も同じであるのだ。
無益? と、初老の騎兵は口髭の下でリュディガーの言葉を嘲笑った。ただし、その兵が見据えるのはリュディガーではなく、将である父だった。
「無益とは片腹痛い。それにしても、その程度の数で勝てるとお思いですか? 追撃に向かった兵を散らしたのはお見事ですが、こちらには他国からの援護もあります。勝てるなどとは努々お思いになられない方がよろしいかと」
その見下した態度にリュディガーは苛立ちを覚えた。父はひとつ息をつき、騎兵を見据える。
けれど、その口から飛び出したのは勇ましい言葉ではなかった。
「この世は狂っている。どこから狂い出したのだろうな」
ナハト軍人もファールン軍も拍子抜けしたように父を見遣った。父は失笑する。
「今さら言っても詮方なきこと。では、参ろう――」
その声が開戦の合図となった。
マエスティティア暦六百十三年、晩冬のことである。




