*21
暗い上空にフルーエティは魔界へ通じる魔法円を描いて、悪魔の軍勢は魔界に戻ったのである。
血と戦の気に酔った悪魔たちも、慣れ親しんだ魔界の空気に徐々に落ち着きを取り戻す。リュディガーとフルーエティは彼らを労いつつ、三将と共にフルーエティの屋敷へ入った。
僕たちが恭しく皆を迎え入れる。そのまま応接間のソファーに腰かけ、ゆったりとくつろぎながらリュディガーはようやく息をついた。
「エティ」
「なんだ?」
向かいのソファーに座り込んだフルーエティが難しい顔をリュディガーに向ける。リュディガーは、そんなフルーエティににこりと笑った。
「ありがとう」
その素直な言葉に、フルーエティは面食らったようだった。リュディガーにはそんな彼の様子も可笑しかった。
「皆のおかげで窮地の父様を救うことができた。リゴールもマルティもピュルサーも、ありがとう」
三将はいつになく明るいリュディガーの表情に笑顔を返した。
「いいえ、お役に立てたのならば幸いです」
「僕も楽しかったですよ」
「リュディガー様の嬉しそうなお顔が見られて、俺たちも嬉しいです。ご悲願が叶いましたこと、お喜び申し上げます」
ピュルサーの言葉に嘘はない。三将皆が同じ気持ちでいてくれるのだと、リュディガーは感慨深くそれを受け取った。
「ああ、長かったな」
フルーエティの手を取ったあの日から、待ちわびてようやく叶った願い。
まだすべてが終わったわけではないけれど、危機は脱した。
それから、リュディガーが浮かれている一番の理由は、父が息子を案じてくれていたからだ。
自身が危機的状況で追い詰められていたにもかかわらず、息子のリュディガーと母を案じていた。そのことが、リュディガーはたまらなく嬉しかった。
落ち着いた今になって、喜びがじわじわと胸に湧く。
母に捨てられたリュディガーだから、父にも見捨てられるのではないかと心のどこかで怯えていたのだ。
自分はもう子供とは呼べない年齢なのかもしれない。それでも、子供染みた感情だとしても、リュディガーは嬉しかった。
父に、母の裏切りを告げなければならないのは心が痛む。リュディガーの現状もどう説明したものかと悩ましくはある。
けれど、それらを差し引いたところで嬉しい気持ちが勝っているのだった。
そんなリュディガーを、フルーエティは無言で眺めていた。その目つきは三将のそれよりも険しかった。そんなことにもリュディガーは気づかなかった。
休息を取った後、リュディガーは部屋にフルーエティを呼んで相談することにした。ベッドの縁に腰かけ、リュディガーは指先を合わせながらポツリと長く口に出すことを恐れていた言葉を吐いた。
「なあ、エティ。母様は……もう父様のもとには戻らぬつもりだろうか?」
壁際のフルーエティは呆れ顔で嘆息する。
「跡取り息子を捨てた時点で、どの面下げて戻れるというのだ?」
「それは……」
言い淀むリュディガーに、フルーエティは少し語調を強めた。
「お前は許せるのか? 保身のために自分を捨てた母親を。赦しを請われれば受け入れることができるのか?」
それでも、優しい母だった。ただ一人の母親なのだ。赦す、赦さないなどという単純な問題ではない。心が完全に母を拒絶することはできない。
本当は、怒り、唾棄するべきなのかもしれない。それでも、母が苦しめばいいとは思わぬのだ。
フルーエティは無言のリュディガーに目を向けたまま、どこか苦しげに顔をしかめた。その途端、いつもは心を読まれてばかりのリュディガーが、彼の心に触れたような気がした。
母を憎みきれないリュディガーの心を読むからこそ、フルーエティは憤るのだ。もどかしく思うのだ。
気づけば、リュディガーの方がクスリと笑っていた。
「エティ、私の分まで怒ってくれてありがとう」
フルーエティは目を瞬かせて仏頂面になったけれど、機嫌を損ねたわけではないようだ。
「……それで、今後どうするのだ? メルクーア公国に攻め入ればいいのか?」
攻め入って、母を父の前に引き渡すという選択はしたくなかった。父がそれを望んだとしても。
「それはなるべく避けたい。まず、母様のことを父にどう告げようか……」
「記憶を操作することもできなくはないが、どこかで歪ができるからな。狂人にしたくなければ避けた方がいいな。まあ、正直に話して愛想を尽かされればそれに越したことはないが、お前の父は真剣にあの女を愛しているようだ」
今度はリュディガーが目を瞬かせる番だった。
「父様の心まで読んだのか!?」
「お前の父はなかなか強靭な精神をしている。読めたのは一瞬、家族への思慕、それだけだ」
父が家族をそれほどまでに思ってくれていることを裏づけてくれる言葉だ。嬉しくはあったけれど、その分、母のことをどうすべきか悩ましい。
フルーエティはふぅ、と息をついた。
「お前の母は魔性――魔女だ。関わる人間はろくなことにならない」
「私の親を捕まえて失礼なことを言わないでくれ」
そう言うものの、フルーエティの言い分を支持する声もきっとあるだろう。
母は今、どうしているのだろうかとリュディガーは思った。少しでもリュディガーや父に申し訳ない気持ちを持ってくれているだろうか。
それとも、思い出したくもないのだろうか。
そうして、過去を捨てて新しい人生を生きて行くつもりならば、もう二度と会うこともない。
リュディガーはしょんぼりとつぶやく。
「まず、父様と話してみるつもりだ」
フルーエティは無言でその先を待った。
「母様のことも上手く話せるかはわからないけれど、まずは私のことを」
この現状を。
高潔な父ではあるけれど、窮地の家臣たちを救うために悪魔を否定せずにその力を借りた。ならば、悪魔がリュディガーを救ってくれたのだという話も受け入れてもらえるのではないだろうか。
「あの愛情は偽りではなかった。俺がそれを感じたのだからな」
「うん……」
惨たらしい現実の中、確かに存在する灯。救いは確かにあるのだ。
父とティルデがリュディガーにそれを教えてくれた。
「では、再び父様のもとへ連れていってくれ――」
覚悟を決めてリュディガーは父のいるトゥルム砦へと向かった。供はフルーエティだけであった。フードを目深に被り、契約の印のある手には手袋をはめ、秘密はすべて覆い隠されている。
二人の姿が砦の上に現れた後、報告を受けた父は家臣を引き連れて急ぎ足でやって来た。
けれど、リュディガーが何かを言う前に、父が言ったのだった。
「すまない、前に言った言葉はあまりに身勝手だった。私は公国の主として、この領地をまず護るべきなのだ。それを、妻や息子を優先するようなことを言ってしまった。まずは公都の奪回をせねばならないというのに」
少し時間が経って冷静になったのだろう。それでも、とっさに家族を案じた父の心が伝わって、リュディガーはより幸せな心持ちだった。
「わかりました。では私どももそれをお手伝い致しましょう」
「けれど……」
父が何を危惧するのか、それをリュディガーなりに理解しているつもりだった。
「この砦の兵力だけで公都の奪還は不可能です。手助けといっても、ひと目で悪魔と知れるような者は極力使わず、魔法など異形の力も禁じましょう」
一般の民に悪魔の姿など見せた日には、公都はひどい混乱に見舞われる。中にはナハト公国の支配を願う者も出るのではないだろうか。それほどまでに、悪魔は忌み嫌うべき存在なのだ。
フルーエティは何も言わなかった。
気遣いに感謝する、と父は言った。




