*20
リュディガーはまず、父の意向を確かめることにした。
砦の外では悪魔とナハト軍の抗争が行われている――といっても、ナハト軍を悪魔勢がいたぶっているに過ぎないような現状だ。
「まず、この包囲網を解くために攻撃を開始しました。けれど、過剰な防衛はこの公国を大陸で孤立させることとなるでしょう。殲滅させるのではなく、ある程度は本国へ帰す方向でよろしいでしょうか?」
リュディガーの問いかけに、父は苦しげに顔を歪め、そうして言った。
否、と。
「この砦周辺のナハト軍の殲滅を願う。一兵たりと逃さぬように」
思わぬ言葉にリュディガーは愕然とした。けれど、父がそれを言う理由は私怨などではない。その苦しげな顔が物語る、苦渋の決断なのだ。
それが、この戦いに必要なことなのだと。
「……それは避けられぬことなのですね?」
「ああ」
うなずいて陰になった父の顔に、リュディガーも覚悟を決めた。
「わかりました」
今日もまた、たくさんの命が散る。
悲しくはあるものの、こうして父と再会することができた以上、父を護ることがリュディガーにとって何よりも大切なことに思えた。
「エティ」
傍らのフルーエティを呼ぶ。押し黙って控えていたフルーエティは小さく嘆息した。
「わかっている」
キィン、とリュディガーの耳元で音がした。フルーエティの右手に白銀の冷気が溢れる。フルーエティは砦の頂上から戦局を一望すると、強大な魔力で空中に作り出した無数の氷柱を雨のように降り注がせる。リュディガーが見下ろしたその光景は――。
氷の杭は悪魔たちの隙間を縫って、ナハト兵士だけを串刺しにした。それも、血の一滴も零さず、杭の周囲から徐々に兵士たちの体は凍っていく。煌く氷の群れはまるでオブジェのように山道を飾った。
悪魔たちは主君の動きに引き際を覚り、バサバサと翼を動かしては飛び去った。そうして、敵兵のすべてを縫い止めたフルーエティは、左手で炎を描き出した。マルティの操る炎よりも鮮やかに燃え盛る業火は、凍てつく林と化した軍勢を一瞬で蒸発させてしまった。水蒸気が風にかき消されたその後には甲冑ひとつ残らず、戦いの跡形もない。
目を疑うような光景だった。
圧倒的な力を前に、リュディガーは身震いしつつフルーエティを見上げた。その顔には何の感慨もない。いつもの取り澄ました顔があるだけだ。
「これでよいのだろう?」
「あ、ああ」
リュディガーは少し遅れてうなずいた。
あまりに呆気なく、綺麗な戦闘。血腥さの感じられない戦いに、命を奪ったという感覚が薄い。
「……礼を言わねばならぬな」
父の声にリュディガーはハッとした。
そちらに目を向けると、言葉とは裏腹に喜びなど感じられない父の顔が見えた。家臣を救うため、悪魔の手を借りた。けれどそれは禁忌である。ここまで追い詰められた状況でなければ、選び取らなかったであろう術だ。
多くの命を言葉ひとつで奪いもした。決断した今もまったく悔恨の念がないとは言えないのだろう。
「二人とも、名はなんという?」
そう訊ねられ、リュディガーはとっさに答えられなかった。正直に名乗ったところで、息子と同じ名前だと思うだけだろう。けれど、悪魔を従える人物と息子の名が同じで喜ぶはずがない。
リュディガーは結局、名乗れなかった。
「……ルトガーと申します」
名をもじって仮の名とした。
「これはフルーエティ」
偽名を使うリュディガーに、フルーエティは何も言わない。無言で佇んでいたけれど、先ほどの壮絶な力を見せた悪魔に対し、兵たちは目に見えて怯えていた。フルーエティが首を動かすだけで兵たちはビクリと身を強張らせる。
父は長く深い息をついた。
「ルトガー殿、フルーエティ殿、助力に感謝する」
父の側近たちは何も言えず、ただ父を不安げに見守っていた。
「これからどうなさるおつもりですか?」
リュディガーがそう問うと、父は悩ましげに眉根を寄せる。
「ナハト公国が何故戦をしかけてきたのか、正確なことはわからない。最初は、しばらく持ちこたえさえすれば、メルクーア公国や宗主国からの援護が望めるものと思っていたのだが。……これは、我が国はなんらかの理由があって宗主国に疎まれたと考えるべきだろう。それならば、他国は頼れず、敵もナハト公国ばかりではない。まずは国内のナハト軍を打破し、占拠された都を取り戻すことが先決だろう。それから――」
気丈に話していたかと思うと、父はそこで声を落とした。
「先に、我が妻と息子をメルクーア公国に落ち延びさせた。けれど、宗主国が絡むのなら二人はすでに捕虜となっているだろう。その力を持ってして、二人の身柄を救い出すことはできぬだろうか?」
リュディガーの身を案じてくれている。そのことは嬉しかったけれど、同時に父を裏切った母のことも父は想っている。そのことがリュディガーに重くのしかかった。
「やはり、できぬか?」
駄目でもともとだと思っての言葉だったのか、父は悲しげにそう言った。
リュディガーはどうすべきか悩みつつも、なんとかして言葉を紡ぐ。
「……絶対とお約束はできませんが、お力にはなりたく思います」
父はほっとしたように表情を和らげた。
「ありがとう。……何故私たちを助けてくれるのか、それはまだ教えてもらえぬのだろうか?」
「ええ、今は。もう少しだけ待ってください。裏切ることは決して致しませんから」
「そうか。では、待とう」
そこでフルーエティはもう一度腕を振るい、魔法円を砦の上に描いた。その魔法円からは雑嚢や木箱、ナハト軍から奪った糧秣が湧いてきた。砦の兵士たちはざわつく。
「アイデクセ平野に駐屯していたナハト軍から奪った兵糧だ。このままここへ置いていくので、好きにするがいい」
フルーエティが言い放つと、皆顔を見合わせていた。空腹であることは間違いないのだが、悪魔からの施しに抵抗があるのだろう。
リュディガーは重ねて言った。
「もちろん毒など入っておりません。私の願いは、ファールン公国の安寧……あなた方と目指すところは同じなのです」
「ああ、ありがたく頂く」
と、父は目を伏せた。ただし、そのまぶたは震えていた。
「それでは、ひとまず去ります。また明日参りますので」
そう言って、リュディガーはちらりとフルーエティを見上げた。フルーエティは上空を旋回していたライムントに目を向ける。騎手のリゴールを思念で呼び寄せたのだろう。ライムントの巨体が砦の上に飛来した。
この地上で飛竜など、滅多に遭遇するものではない。兵たちはライムントの威容に圧倒され、いっせいに退いた。中には兵士とは思えぬほどに取り乱したものもいる。
フルーエティの手を借り、リュディガーはライムントの背に乗る。リゴールは手綱を握り締め、ライムントを再び羽ばたかせた。上空へと飛び上がるライムントの背から、リュディガーは自分たちを見上げている父を見た。
救うことができた。父の助けとなれた。
その事実が、リュディガーの胸にあたたかな明かりのようにして灯ったのだった。
Ludger ルトガー
Rüdiger リュディガー




