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貴い血だなどと、誰が言った。
そうした血統の子供は所詮、都合のいい戦争の道具でしかない。
リュディガーは朝日が差し込む部屋で来訪者を迎えた。暖を取れずに冷えた体であったはずが、不思議と寒さは忘れていた。時間の感覚もすっかり狂って、いつの間に朝が来たのかと思うほどに短く感じられた。
けれど、この幼い命を散らす時は刻一刻と迫っていたのだ。
来訪者、ヴィーラント卿は人のよさげな笑顔を浮かべ、リュディガーに申し訳なさそうに言った。
「用意した客間におらぬので驚いたよ。いくら配属されて間もないとはいえ、このような部屋と間違うとは。あの侍女のことはしかと叱責しておいたのでな、許してほしい」
昨日の悪魔の言葉は、すべて自らの不安の結晶――弱い心が作り出した幻なのだ。
「いいえ、匿って頂いているのは私どもの方ですから」
やっとの思いでそれを言った。目が虚ろであったとしても、ヴィーラント卿は寒さのせいだと思ったのか、あまり気に留めるふうでもない。
心が、抱えきれない色々なものを吐き出して、目の前のヴィーラント卿を信じろと言っているような気がした。悪魔のささやきに惑わされるなど、愚かしい限りだと。
ヴィーラント卿の白手袋の手が、リュディガーの頭にそっと触れる。
「君は利発な子だ。このまま立派に成長する姿を見てみたいような気にもなる」
――欺瞞は結局のところ、欺瞞でしかない。
最初からわかっていたのだ。初めて会ったその瞬間から、ヴィーラント卿はリュディガーの存在をまるで認めていなかった。母の付属品として見ていたのだと。
「さあ、客人が来ている。君の未来のためにお会いした方がよい」
リュディガーは顔を上げ、そっとつぶやいた。
「母はどうしていますか?」
すると、ヴィーラント卿の顔がかすかに引きつった。見間違いかと思うほどに一瞬のことで、次の瞬間には笑顔がすべてを覆い隠していたけれど、その垣間見たものをリュディガーは見逃さなかった。
「疲れが出たのだろう。少し気分が優れぬようで、別室で休んで頂いているよ。なあに、心配は要らない。君が客人と会っているうちに回復されるさ」
「……そうですか。母をよろしくお願い致します」
そう言ったリュディガーの心など、ヴィーラント卿には伝わらない。ほっと安堵したような息をついた。
「ああ、もちろんだ」
そうして、リュディガーはその部屋を出た。その途端、ヒュッと息を呑む。
扉を出てすぐの廊下に、あの悪魔がいたのである。まっすぐにリュディガーを見据える紫の瞳に、リュディガーは昨晩のことを思い起こした。
昨日の侍女と同じで、悪魔はやはりヴィーラント卿の目にも映らぬらしく、見向きもしない。彼はリュディガーにしか見えぬのだ。
『おい』
「……」
頭の中に声が響く。それでもリュディガーは見えぬ振りをした。けれど、悪魔には通用しない。
『本当にそれでいいのか?』
「……」
その場を無言で通り過ぎれば、悪魔は後をついてきた。
『お前は何もわかってない。愚かな子供だ』
愚かな子供だと。そんなことは誰よりも自分が一番わかっている。
けれど、この地で王侯貴族の援護もなくただ一人の自分に何ができるというのだ。
悪魔の力を頼りにして、その力で国と父を救えるとでもいうのか。そんなことを父が喜ぶとでも――。
『喜ぶさ。お前がこのまま死ぬよりはな』
「っ……」
心を読むなと叫びたくなる。この弱い心の奥底に眠る想いなど、悪魔には見透かされている。
だから悪魔はこうして語りかけるのだ。
『そう思うのならば俺の手を取れ』
リュディガーがかぶりを振ると、ヴィーラント卿が振り返って首をかしげた。
「どうかしたか?」
「……いえ」
通されたのは、最初にヴィーラント卿に目通りを許されたあの部屋だ。そこに二人の軍人がいた。その軍服は、やはりナハト公国のもの。返り血にすら染まることのない黒。かすかに染みついた血臭がする。腰に佩いたサーベルが吸った血は、リュディガーの祖国の民のものであるのだろうか。
「ああ、確かにファールン公国のリュディガー公子ですね」
年嵩の方の軍人がそう言った。落ち着いた様子にも冷徹さが滲む。
彼らはリュディガーたちが逃げ込むよりも先にここで待ち伏せていたのかもしれない。そうでなければ、これほどまでに早くここに辿り着けるとは思えなかった。他に逃げ道がなかったとはいえ、そこへ飛び込んだ浅はかさを呪っても、すべては今さらだ。
「これでご理解頂けましたか? 我々メルクーア公国はあなた方と敵対するつもりはありません」
ヴィーラント卿の言葉に、リュディガーは何かを言う気力もなかった。向けられた視線を避けるようにしてうつむく。
「賢明ですな」
一軍人が公爵に尊大な態度で接する。ナハト公国はファールン公国に攻め入り、その領地を蹂躙した。つまり、物資や兵力を吸収し、このメルクーア公国に攻め入ることができる。もともとメルクーア公国は大陸の端で、狭い領地しか持たない。ファールン公国が落ちる以上、ナハト公国に盾突くことなどできようはずもなかったのだ。
この軍人たちにもそれがわかるからこその態度である。
「お初にお目にかかります、公子」
年嵩の軍人がリュディガーを前に膝を折る。その仕草は道化じみていた。
リュディガーが向ける虚ろな瞳を、その軍人は嘲笑うかのようだった。
「あなた様には我が国の捕虜となって頂きます。生きながらえようと思われるなら、どうか聞き分けのないことなど申されませんように」
この命を盾に父に投降せよと要求するのだろうか。
無言を貫くリュディガーに、ナハト軍人はさらに言った。
「高貴なあなた様を縛めるのはあまりにも忍びない。抵抗さえしないとお約束頂ければ、そのような真似は致しません」
リュディガーはこくりとうなずいた。
外で馬車が待つ。
リュディガーは軍人二人に挟まれる形で歩いた。一度だけ立ち止まって要塞の威容を見上げた。そこに母がいるのだ。もう二度とまみえることはないのかもしれない。
母は今、どうしているのだろう。
悪魔の言葉が真実ならば、捨てた子の顔など見たくもないだろうか。
「公子」
急かされ、リュディガーは寒空の下、敵兵の馬車へと乗り込む。黒塗りの冷たい馬車であった。馭者台の上の男が馬に鞭をくれ、車輪が回り出す。それは運命のように。
走り出した馬車の中、若い軍人は無言でうつむくリュディガーを一瞥すると、吐き捨てるように言った。
「公子を引き渡す代わりに自らの助命を嘆願するとは、たいしたタマですね」
「……憐れとは思うが、あまり情けはかけるな」
何も聞こえない人形であるかのように扱われる。大事なのは、リュディガーという『形』である。人格など不要なのだ。
虚しくて、苦しくて、そして、恐ろしかった。
だからこそ――。
『どんな御託を吐いて大人ぶってみたところで、お前は自分自身を投げ出すことですべてを終わらせようとしているに過ぎない。お前は、長引くのが怖いのだ。この戦が続き、民が血を流し、死に絶えることが。落ち延びた自分に期待をかけられることが。お前はそれらから逃れるために諦めるという選択をした。すべては誰のためでもない、お前のための選択だ』
悪魔の声が馬車の音にかき消されることなく頭に届く。リュディガーは思わず呻いていた。
すべてを飲み込む大きな流れ。世界。
それに立ち向かえるほど、この幼い心は強くなれない。
諦めだけが心を救ってくれる。
「責めないで……私を――」
消え入る声を誰も拾わない。拾うのは、心を読む悪魔だけだ。
『囚われたお前を救うべく、多くの命が散るだろう。見ろ、その末路を』
その声がひと際大きく頭に響くと、リュディガーは一人ぽつりと戦地に立っていた。累々と折り重なる人馬が荒れた地を埋める。霜の降りた草木に赤黒い血が飛沫し、戦地とはいえあまりにも無残な光景であった。
それでも、腹に矢を受けた軍馬に乗る人物がいた。冬の空のように薄蒼い軍服を、もとの色がわからぬほどに血で汚し、白い息を荒く吐きながら手綱を握る。手には折れた剣があるのみ。
戦えるのは彼くらいのものであったのか、黒い敵兵はじわりじわりと彼を囲む。
「ハーク!!」
思わず叫んだリュディガーに、彼が振り向くことはなかった。疲れが色濃く刻まれた顔を歪め、最期の時まで彼は雄々しくあった。槍に貫かれたその体は馬上から滑り落ち、血を吐いて果てた。
リュディガーは声もなく、頭を抱えてうずくまった。寒さも臭いも何も感じられない。涙も出ない。それなのに、胸だけは痛い。
これは悪魔が見せる幻なのだ。
「あ……あぁ……」
惨い。あまりにも惨い、この光景が現実だとするのなら――。
『お前の選択がこの未来を招く。この者は、お前のために戦ったのだ』
「嫌だ! こんなのは嫌だ!!」
子供の自分が国を救えるなどとは思わない。この身を犠牲にしてさえ、救えるのは母一人。
どうすれば彼らを救うことができるというのか。
呻吟するリュディガーの前に再び悪魔が姿を現した。そうして、悪魔は手を差し伸べる。
「我が名はフルーエティ。この未来を回避するために俺の手を取れ」
青白く輝く銀の髪。紫色の瞳。細く長い指をした悪魔の手にリュディガーは小さな手を重ねる。
現実も、悪魔も、結局はどちらも惨たらしいものなのだ。
違う未来を望むのなら、悪魔を従え、惨い現実を変えられる自分になれと――。