*18
粗末なベッドの上で目を覚ます、二度目の朝。
一度目は戸惑い、二度目は切なくリュディガーは体を起こした。隣で眠るティルデを起こさないようにそこを抜け出すと、簡単に身支度を整えた。
振り返って、ティルデの顔にかかる髪をそっと払う。その寝顔を目に焼きつけて外へ出た。
心に沸き上がるのは、再び離れる寂しさだ。けれど、目覚めたティルデにはもっと寂しい思いをさせてしまう。そう思うと苦しかった。
それでも、彼女と安心して過ごせる場所を手に入れるために、今は耐えねばならない。
リュディガーは小屋の屋根を見上げた。鴉の黒い目がリュディガーに向く。
「エティ、来てくれ。今すぐにだ」
鴉はカア、と鳴いた。
そうして、背後にはすでに気配があった。束の間離れていただけだというのに、妙に懐かしいような気がした。その気配に心が落ち着く。
リュディガーは振り向かずに言った。
「お前は、悪魔にしては随分と気を回すんだな」
背後でフン、と一笑された。
「繊細すぎる主を持ったせいで気苦労が絶えん」
「それはすまない」
フルーエティの嫌味にも動じず、リュディガーはゆとりを持って振り返った。
「お前たちにも迷惑をかけたな。でも、もう大丈夫だ。……戦をしよう。私は父様を救い、そうして安寧の場所を手に入れる」
はっきりとしたその言葉に、フルーエティはリュディガーを直視した。その目がスッと翳る。
「安寧の、な。そこであの娘と共に過ごすか。けれど、お前は国を背負う立場の人間だろう。あの何も持たない小娘を周囲が認めるのか?」
悪魔の癖に、人の世の仕組みをもっともらしく語る。フルーエティはいつもそうだ。
「公子という立場が、こんな存在になった今も生きているかはわからない。私は国と父様を救えたら、立場など捨ててもいい。父様はまだ若いんだ。母様を忘れて他の女性を娶れば弟妹が生まれる可能性だってある。私は平和さえ訪れれば、彼女とひっそりと暮らしていたい……」
それは身勝手な願いなのかもしれない。けれど、彼女以上に自分を必要としてくれる存在などいないのではないだろうかと思えた。
フルーエティは小さく嘆息する。
「まあいいだろう。お前の望みは叶えてやると言ったはずだ」
そのひと言にリュディガーは笑った。
「ありがとう、エティ」
心を読む彼だからこそ、リュディガーの気持ちを誰よりも酌んでくれるのかもしれない。
ティルデのいる森から一度魔界へ。戻るのは一瞬だ。
戻った場所はフルーエティの屋敷がある崖の上ではあるのだが、その坂の上には夥しい数の異形の悪魔がいた。屋敷にいる僕たちも中には混ざっているように見えた。
彼らが何であるのか、何故ここで待っていたのか、リュディガーはすぐに把握できなかった。呆然とするリュディガーに、フルーエティの三将が駆け寄ってひざまずいた。
「リュディガー様、お待ち申し上げておりました」
リゴールは感情の昂りを抑えるような、熱のこもった声で言う。いつも落ち着いた彼にしては珍しいことである。
その時になって、リュディガーはようやく理解した。
この地に集結している悪魔たちは、皆フルーエティの軍勢である。ひとつの砦の包囲網を解くには十分すぎるほどの。
地上での戦に向け、猛りきった悪魔たちの声がする。それをピュルサーが抑えていた。
「エティ、これは……」
場の空気に呑まれないよう、リュディガーは心を落ち着けながら問う。
「あの程度の戦にこの数は必要ない。けれど、いざとなればこれだけの軍勢を投入できるのだということだけは覚えておけ」
彼らの一人一人は、人間の兵とは比べ物にならない力を持つ。そうでなくとも、フルーエティと三将だけで公国のひとつくらいは滅ぼしてしまえるだろう。
この大きすぎる力をどう扱うのか。リュディガーは静かにうなずいて見せた。
「……わかった。とりあえず、トゥルム砦の敵兵を蹴散らし、逃れた敵兵がナハト本国へすぐに戻れないように攪乱したい」
ナハト軍を壊滅させる方が簡単だとしても、それではいけない。それでは、大陸全土の公国と宗主国を敵に回す覚悟がいる。
まずは父に会い、その考えを知りたいのだ。父がナハト軍への追撃を望むのなら、その時はそれしか道がないということなのだと思える。
「殲滅するなということですね?」
マルティが首を傾ける。リュディガーははっきりと言った。
「そうだ。これは頼みではない。フルーエティの主として私が命じることだ」
「御意のままに」
マルティは従順に頭を垂れた。リゴールとピュルサーもそれに続き、そうして波のようにすべての悪魔がひれ伏した。フルーエティの主である以上、リュディガーにはそれだけの力があるのだ。
フルーエティは、震えることなく佇む主の隣で静かに目を伏せていた。
――いよいよ戦へ望む。
「トゥルム砦から逃れた兵はまずアイデクセ平野に流れるだろう。砦付近である程度の兵を蹴散らした後、リゴールを筆頭に飛行部隊はそちらを追尾し、国境へ近づけずに翻弄してほしい。平野から出さないように頼む」
平野はそれなりの広さがある。多少の戦闘があっても町への被害には繋がらない。
リゴールは穏やかにうなずいた。
「ええ、もちろんです。その役目、しかと果たしてご覧に入れましょう」
力強い言葉に、リュディガーもうなずく。
「マルティは砦付近、ピュルサーは念のためにメルクーア公国方面を警戒していてほしい」
「畏まりました」
マルティとピュルサーも答えた。二人に対してもきつく歯を食いしばってうなずくリュディガーに、フルーエティは不意にどこからともなくフードのついた黒い外衣を取り出して被せた。
「エティ?」
フードの下からきょとんとフルーエティを見上げるリュディガーに、彼は言った。
「その姿を見て、お前が誰だかすぐにわかる人間などいないかもしれない。それでも姿を見せるのは後のことにしておいた方がいいだろう。お前が名乗りを上げるつもりになったらそれを取れ」
今のリュディガーは、悪魔の軍勢を率いる謎の人物だ。
窮地に陥っているファールン兵を助けたといっても、それは悪しき存在だと忌避される可能性もある。
そうした反応が見られた時、父に貴方の息子だと名乗りを上げるべきではないとも言える。顔をさらせば、父は何かに勘づくかもしれない。だから、フードを取り払う時機は自分で見極めろと。
褒められたくて助けに向かうわけではない。
もし万が一、父が難色を示すようであれば無言で去る。その後も、ファールン公国への侵略をさせぬように暗躍するつもりだ。
そうすることでファールン公国が平穏に存続できる地となれば、多くは望まない。その片隅で密やかに慎ましく、ティルデと住めるような場所があればそれでいい。
そのために戦う。
平穏のために奪う命がある。その身勝手を正当化しようとは思わないけれど、降りかかる火の粉を甘んじて受けるわけにはいかない。
先に戦いを始めた方が悪いのだ。それだけは確かなことだと思う。
「……ありがとう。では、行こうか」
黒衣が風にはためく。その姿を見た者は、漆黒の翼の生えた悪魔とリュディガーをそう呼んだかもしれない。