*17
薄汚れたカーテンの隙間から朝日が差し込む。リュディガーはまぶたの裏に光を感じた。
その時、指に絹糸の束のようなものが絡む。その滑らかな手触りが心地よくて、それをひと房だけ指に巻きつけてみながら寝ぼけた頭でぼんやりと考えた。これはなんなのかと。
そうしてハッと我に返った。すぐさま手を放すと、素早く隣に目を向けた。眠る彼女の髪がベッドに広がっている。
「っ……」
昨日の晩のことを思い出し、先に目が覚めたことを神に感謝した。そっと体を起こし、眠るティルデに目を向ける。彼女をまたいでいかなければベッドから降りられない。だからしばらくこのままでいることにした。
あどけない寝顔に心が癒される。トクリ、と胸が熱くなる。
眺めていると幸せな心地がする。けれど、何か物足りないような切なさもある。
こうした感情は――。
「う……」
急にティルデが小さく呻いたので、リュディガーはひどく疚しい気持ちになった。ティルデはそこで目覚めた。目を擦りながらのそりと起き上がる。
「おはよ」
「あ、ああ、おはよう……」
ふあぁ、と手を当てつつも大きなあくびをした。同じ女性でも、リュディガーの母ならばまずしなかっただろう仕草だ。
戸惑いつつも苦笑する。そんな飾らないところが逆に好ましく思えたのだ。
「食事、用意するね。外で顔洗ってくるといいよ」
「うん」
リュディガーが外に出ないと着替えることもできないのだろう。リュディガーは素直に外に出た。
外には池があるけれど、それとは別に井戸もある。リュディガーは井戸水を汲み上げて使うことにした。汲み取った水は綺麗なものだ。リュディガーはそれで顔を洗った。そうして何気に上を見上げると、屋根の縁に鴉がいた。フルーエティの使い魔だ。
「……エティ、私はもう大丈夫なんだ」
ささやいてみると、鴉はカアと鳴いた。ただの鴉なのではないかと疑いたくなった。
そうこうしているうちに身支度を整えたティルデが中へ招き入れてくれた。保存の効く硬めのパンを軽く火であぶり、チーズを添えて、粉乳を湯で溶いたものを出してくれた。それをリュディガーが食べきると、笑顔で追加分を皿に乗せる。体力を戻すためにもっと食べろということらしい。
ティルデがそこにいると心が落ち着く。あの日に失われた命は、リュディガーのこんな安らぎを赦してはくれないかもしれないけれど。
しかし、ここにいて特別することがあるわけでもない。ティルデに何かしてほしいことはないかと訊ねてみたら、しばらく考えた末に薪を割ってほしいと頼まれた。思えば今まで、公子であったリュディガーが薪を割る必要などなかった。
使用人たちが薪を割る光景を思い起こしながらなんとなく割ってみたものの、なかなかに難しかった。けれど、次第に慣れてコツがつかめてきた。少し錆びついた手斧を振るっていると、ティルデがひょっこりと顔を出す。
「ありがとう。休ませてって頼まれたのに、余計に疲れさせちゃった?」
リュディガーはかぶりを振った。
「いや、動いていた方が気が休まるからいいんだ」
「そうなの?」
割った薪を片づけ終えると、ティルデはリュディガーの手を引いて池の縁に座らせた。冬も終わりに近づいて、日差しはあたたかだった。草もうっすらと緑に変わりつつある。池の水は濁ることなく蓮の葉が浮かんでいて、そこは狭くも穏やかな場所であった。
リュディガーが腰を据えると、ティルデだけは立ったままで、そうして深く息を吸い込むと高らかに歌い始めた。
目を閉じて、その歌声に耳を澄ませる。優しい旋律は疲れた心の隙間を埋めるように触れた。
こうした柔らかな時間を過ごしたのは初めてのことだったのかもしれない。魔界ではフルーエティに護られているとはいえ、ここまで安らかな気持ちにはなれなかった。幼い頃も勉強や稽古に明け暮れて、いつも張り詰めて過ごしていた。
それが今はどうだろう。ほんのひと時とはいえ、こうした気持ちにさせてくれるティルデに強い感謝の念を抱いた。
彼女の歌声に恍惚と聴き入っていると、歌は伸びやかに終わりを迎える。それでもまだ余韻に浸っていたくて、すぐにまぶたを開かなかった。ゆっくりと日常に戻る支度をしながらまぶたを開くと、あまりにも近くにティルデの顔があった。リュディガーの顔をじっと覗き込んでいる。眠っているとでも思われたのだろうか。
リュディガーが目を開けても、ティルデは顔を引かなかった。どこか夢見るように潤んだ瞳でリュディガーを見つめ、そうして唇を重ねた。柔らかく押し当てられた唇に驚きつつも、全身に痺れが走ったような感覚がした。じわりと滲み出す感情はあまりにも強くて、そんな自分を持て余す。
拒絶をしないリュディガーに、ティルデは体を投げ出すようにして腕を絡ませた。押し当てる唇が強く擦れ、吐息が漏れる。
甘やかに感じられるはずの口づけに塩気が混ざり、その時になって初めてティルデが泣いていることに気づいた。細い肩をつかんでそっと引き離すと、ティルデは涙を隠すようにうつむいた。
「ティルデ?」
涙のわけがわからず、リュディガーは戸惑うばかりだった。
「どうして泣くんだ?」
ためらいながら問うと、ティルデはくしゃりと顔を歪めて零した。
「帰るんでしょ?」
「え?」
「もうすぐまた行っちゃうんでしょ?」
ポロリと涙が零れる。その雫が彼女の服を濡らした。広がる染みがまるで不安の表れに見えた。
行かないと言えば嘘をつくことになる。そうすれば笑ってくれるのかと思うけれど、その場しのぎの嘘はかえって彼女を傷つけてしまう。
ただ、そんな彼女の涙をどこかで嬉しくも感じた。
共にいる時間を愛しく思い、離れることに寂しさを覚えてくれる。それはリュディガーも同じであった。
リュディガーは、涙を零す彼女の額に口づけてからささやく。
「でも、迎えに来るから」
「ほんとに?」
ひく、としゃくり上げる様子に愛しさが募る。リュディガーは優しくうなずいた。
「ああ。こうしてティルデと少しでも長く一緒にいられる場所を手に入れに行くんだ。だから、待っててほしい」
一人寂しく待たせることになる。ティルデを支えるための言葉を、リュディガーは一言一句心を込めて伝えた。ティルデが笑ってくれたのは、その心が伝わったからだと思えた。
その後、食事も何もかも忘れて二人で時を過ごした。
どちらからかもわからないほど自然に、気づけば互いのぬくもりを求める。
その衝動を受け入れて、触れ合う素肌で想いを確かめ合った。幻ではなく、確かなものとしての証を示すように。
今だけは何もかも忘れても赦されるような気がした。