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*16

 結局のところ、ナハト軍の駐屯兵は誰も生き残っていない。

 それどころか、この地には何もない。兵の死骸も天幕の残骸もすべてフルーエティの業火に焼かれて灰燼(かいじん)と化した。配下たちが虐殺したその亡骸を、フルーエティはまるで慈悲のようにして焼いたのだ。

 せめてもの救いは、繋がれていた馬だけが生きたまま放逐されたことだろうか。


 未明の焦土にリュディガーはポツリと立つ。悪魔たちはその背を心配そうに眺めていた。

 何故、こういうことになったのかとリュディガーは自問する。

 彼ら悪魔をリュディガーは理解し得ていなかったのだ。血に酔った獣が小動物を狩り尽くすまで衝動が収まらぬように、彼らもまた本能で動く。


 悪魔にも心はある、好悪も存在する。けれど、根本が違うのだ。善悪がリュディガーのそれとは違う。

 彼らは悪くない。悪いのは、それを理解することなく頼み事をした自分だ。

 リュディガーは胃の腑が締めつけられる思いがした。脳裏に自分が斬った兵士の表情ばかりでなく、惨たらしい死を遂げた人々の姿が浮かぶ。


「ぐ……っ」


 膝をついてむせた。喉からせり上がってくる吐瀉物を抑えきれずに吐き出した。どこまでも、どこまでも。

 その苦しさから涙も止まらず、次第に吐くものもなくなって苦い胃液が口の中に広がる。そうして、そこに血の味が混ざった。


「それくらいにしておけ」


 と、四つん這いの背中にフルーエティの平坦な声が降った。そこには労わりもなければ責める様子もない。無機質な音のような声に、リュディガーは少しだけ冷静さを取り戻した。

 初陣を経験する兵士とは皆こうしたものなのだろうか。人の死の重みにこうして慣れていくのだろうか。


「お前ら人間は何か喰わねば生きられない。そう吐き出してばかりでは体が持たぬだろう。吐いたならその分喰うことだ」


 ひどく無茶を言われた。


「今は……とてもじゃないけれど無理だ」


 口元を拭って切れ切れに答えると、フルーエティは嘆息した。


「世話の焼ける(あるじ)だ」


 謝りたくはないけれど、世話をかけているのは事実だ。涙の跡も肩口で乱暴に擦って消すと、リュディガーはなんとかして立ち上がった。よろめくその体をフルーエティが支える。

 そうしていると、リュディガーの意識も朦朧としてきた。どこか遠くからフルーエティがつぶやいた声が聞こえた気がした。


「少し休め――」




「――リュディガー」


 優しい声に名を呼ばれた。横たえられた体は柔らかなベッドの上にあることが感覚でわかった。

 けれど、うっすらとまぶたを開いた時に目に飛び込んできたのは、魔界にある部屋に置かれたベッドの天蓋ではなかった。それは粗末な家の、染みが目立つ天井だった。


 身に覚えのない場所に驚いたけれど、とっさに起き上がろうとした瞬間に右手が不自由であることに気づいた。柔らかくあたたかなぬくもりは、幼い日に失くしたものによく似ていた。


「よかった。気づいたのね」


 ほっとしたように微笑んだティルデ。ベッドに横たわるリュディガーの右手を握り締めて、ティルデはベッドのそばに座り込んでいた。


「ティル……デ?」


 ここは彼女を匿っている小屋なのか。いつの間にここへと考えたけれど、フルーエティ以外の誰かの仕業であるはずもなかった。体も服もいつの間にか清められていて、血の臭いも汚れも見当たらなかった。


「エティさんがリュディガーを運んできたの。しばらく休ませてやってくれって」

「そうか……」


 その光景を思い浮かべると情けなくて、リュディガーは視線を泳がせた。けれど、ティルデはそんな細かいことは気にならない様子で、サッと立ち上がると、スカートの裾を膨らませて振り返った。


「スープ作ったの。食べられる?」

「ああ、ありがとう」


 部屋をあたためている暖炉の火がある。鍋のスープはリュディガーのためにあたたかさを保っていた。

 木皿に野菜の少し浮いたスープが入っている。こうした日用品はこの家に残されていたのだろう。

 トレイに乗ったままのスープを受け取り、そっと口をつける。優しい味つけと熱が空っぽの体に染み渡った。


「美味しいな」


 世辞でもなく、心からそう思った。疲れた心と体にぬくもりをくれる。


「そう。よかった」


 ティルデは何かを訊ねることもせず、ただそばで微笑んでくれた。



 病気というわけではない。気持ちに体がついていけなかっただけだ。

 リュディガーは夕方になってベッドから抜けると、床にそろえてあったブーツに足を入れた。それを履こうと身を屈めた時、ティルデがそれを邪魔するようにリュディガーの腕に抱きついた。

 柔らかな感触に戸惑ったけれど、ティルデはそんなことなどお構いなしに顔を近づけた。


「エティさんが、自分が迎えに来るまでリュディガーはここにいるようにって。……だって、すごく疲れた顔してるもの。エティさん、きっと心配してくれてるのよ」


 フルーエティは悪魔だ。けれど、(あるじ)であるリュディガーのことはそれなりに心配してくれているのだろう。もしくは、あの醜態に呆れてここに置いていかれただけかもしれない。こうしているうちに戦いが終わっている、なんてことにはならないだろうか。

 そんなリュディガーの不安を、フルーエティは察していたようだ。ティルデは言う。


「お前の回復をただ待つ、そう伝えて休ませるようにって言われたの」


 ああ、とリュディガーは小さく零すと長く細い息をついた。

 心を強く、戦いに耐えられるように保てと。フルーエティは猶予をくれたのだ。


「……でも、いつ迎えに来るんだろう?」

「さあ。二、三日は後じゃないかしら? 保存食をたくさん用意してくれたから、結構長居しても大丈夫よ」


 と、ティルデは可愛らしく首をかしげた。


「えっと……」


 さすがに女性と二人でひとつの小屋にいるのは気が引ける。ただ、そう思ったのはリュディガーだけであった。


「こんなところで外聞も何もないでしょ。細かいこと気にしなくていいから、そのままベッド使ってね」


 平然とそんなことを言う。リュディガーの方が言葉を失った。

 ティルデはクスリと笑う。


「あたし、ずっと旅ばっかりの楽団員だったんだからね。雑魚寝なんてこともザラにあったし、同じ部屋にリュディガー一人くらいいても全然平気よ」

「いや、でも……」


 すると、ティルデは悪戯っぽく笑った。


「何? リュディガーはあたしのこと襲うつもり?」

「へっ?」


 顔を引きつらせたリュディガーに、ティルデは楽しげに言った。


「なんてね。そういう乱暴な人じゃないってわかってるから平気」

「……」


 何か、褒められているとは思えないような複雑な心境になってしまった。その理由(わけ)をフルーエティならば教えてくれるだろうか。などということをリュディガーはぼんやりと考えた。


「とにかく、今日は大人しく休むこと。以上!」


 びし、と人差し指を鼻先に突きつけられ、リュディガーは苦笑した。


「わかったよ」


 そう答えた時、ティルデが嬉しそうに見えた。こんなところに一人、話し相手もなく置き去りにしてしまっている。退屈していないはずがない。

 早く彼女をここから出してあげたい。そのためにはやはり安全な場所を確保するしかないのだ。

 へこたれている場合ではないのだと、改めて自分を奮い立たせる。



 その晩。

 床で寝ることを許してもらえなかったリュディガーは、同じベッドの上で無頓着にもスヤスヤと眠るティルデに背を向け、なるべくその存在を意識しないように心がけた。


 けれど、鼓動はトクトクと耳障りなほどに夜通し高鳴り続けたのである。硬くまぶたを閉じて、胸を押さえた。この感情に名前があるのならそれを知りたい、そんなことを思った。

 

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