*15
三将の待つアイデクセ平野に戻ったリュディガーは、まずリゴールに頼んでライムントの背に乗せてもらい、平野の状況を把握することから始めた。
ライムントの大きな影が駐屯地に落ちないよう、かなり上空を飛ぶ。高く飛んだことによってトゥルム砦の方にも目が行く。山麓には黒い軍勢が、まるで砂糖にたかる蟻のように群がっていた。
そんなものを見てしまえば気は急くけれど、軍勢は大人しく特に動く気配を見せない。先にナハト軍の兵站線を絶っておかなければ長期戦は必至だと、リュディガーは自分を落ち着ける。
あらためて地上を見下ろせば、ナハト軍の糧秣を護る駐屯地には十二もの天幕が張られていた。荷馬車を引くための馬と軍馬も囲われている。
小さくしか見えないその場所にリゴールも目を向けてつぶやいた。
「駐屯地内部の状況はフルーエティ様がお調べくださっていますし、なんの問題もございませんよ。ご心配なさいませんように」
「うん……」
不安を隠してうなずく。そんなリュディガーの後ろで、無理矢理ついてきたマルティとピュルサーが物珍しげに空を見上げていた。
「眩しいですね、地上の太陽は。空も青くて……なんでこんな色なんでしょうね?」
「ほんとほんと。目が疲れるなぁ。早く日が暮れるといいのに」
悪魔たちは野生の獣のように夜目が利く。この飛竜ライムントもそうだ。そうして、リュディガーも地上で生活している人々に比べれば闇に強い。薄暗い魔界の空に慣れてしまっている。
「決行は夜にしよう。その方が私たちには都合がいいだろうから」
リュディガーがそうつぶやくと、マルティが嬉しそうにはしゃいだ。
「お役に立ってお見せますよ!」
その無邪気さに、リュディガーは苦笑するのだった。
そうして、姿を消して駐屯地へ潜入していたフルーエティと合流した。
「思えば、初めて会ったあの日も、エティの姿は私にしか見えていなかったな」
そんなことを今さらながらに思い出した。フルーエティは呆れたような目をリュディガーに向ける。
「姿など俺が『見せている』に過ぎない」
そうしたことをできるのは、やはりフルーエティが上級悪魔であるからこそなのだろう。
「それで、食料は雑嚢や木箱に入れて天幕の中に収めてあった。馬の囲いのそばには飼葉、その隣の天幕には矢や剣といったものも。篭城する相手との戦いだからな。駐屯地の守備など弛みきっていて、あってないようなものだ」
「わかった」
答えたリュディガーを、フルーエティはじっと見据えた。そうして、後ろに回していた手を不意に差し出した。その手には蒼い柄と鞘のサーベルが握られていた。柄には金の繊細な細工があり、刃を見る前からその切れ味を知っているかのような気になる。
「魔界の武具だ。地上のものよりは優れているだろう」
「ああ、ありがとう」
サーベルを受け取ると、その硬質な冷たさが伝わる。
驚くほど手によく馴染むサーベルを、リュディガーはもう後には引かないと誓うようにして握り締めた。
夜。
冬の夜は存外早くに訪れる。眩しかった太陽は去り、月も輝かぬ、そんな夜。
駐屯地にぽうっと明かりが灯った。
けれど、その明かりはランタンに収まるでもない、自身が意思を持っているかのような炎であった。炎は宙で渦巻き、駐屯兵たちを照らし出す。
「な……っ」
そこにいたのは、赤い髪をした細身の青年と、黒金の鎧を身にまとう禍々しい騎士の二人。そのそばに、しなやかで勇猛な肢体をした雄獅子が獲物を狙うような目をして低く唸っているのだから、兵士たちが驚くのも無理はない。
この大陸に野生の獅子など生息していない。有力者のごく一部が海を渡った他国から買い求めて飼うこともあるのだが、一般の兵士では目にした者も少ないはずだ。
それでも、その雄雄しい体に畏怖を感じずにはいられなかっただろう。獅子がひと声鳴けば、それだけで兵士たちは身をすくませた。
「……さあ、始めよう」
彼らの背後でリュディガーはそれだけを言った。隣のフルーエティが物言いたげな目をしている気がしたけれど、あえてそちらは向かなかった。
「糧秣を焼くなよ。鹵獲が目的だ」
リゴールがマルティに素早く釘を刺す。マルティはわかっているとうなずくような仕草を見せた後、目にも留まらぬ動きで兵士の一人の首根っこをつかんでいた。
敵襲だと声を張り上げかけたその兵士の足が地面から浮いた。細身の青年が逞しい兵士を腕一本で吊り上げ、楽しげに笑っている光景は異様だった。
「糧秣は焼かないよ」
ゴウ、と宙を舞う炎の流れが変わった。
その兵士を助けようとしたのか、糧秣を護ろうとしたのか、兵たちは果敢に立ち向かってきた。それをリゴールが槍でなぎ払い、ピュルサーが牙と爪で引き裂いた。
ああああああああ、と耳を劈く悲鳴が上がった。マルティが吊るしていた兵士は、見る見るうちに萎んだ。細いマルティの体よりも細く、枯れていく。肌は黒く変色し、体中の血が蒸発してしまったような有様だった。
この時、いつも陽気なマルティの横顔は残忍に歪んでいた。
リゴールの槍が、ピュルサーの爪が闇に血の粒を散らす。駐屯地は魔界よりも血腥さに満ちた。
リュディガーは、戦いの気にゾクリと身を震わせ、足から力が抜けていく感覚がした。このままリュディガーがここで腑抜けていたとしても、掠奪は終わるだろう。
けれど、それを許してはくれないのだ。
「これはお前の戦いだ」
フルーエティがささやいた。そのひと言にハッとする。
口を開けて餌を待つ雛鳥のように、与えられる時を待つのかと。それで自分は納得できるのか。
ぐ、と唇を噛み締め、リュディガーは剣の柄を握り締めた。そうしてその鞘を抜き払う。氷のように研ぎ澄まされた刃が闇の中で煌いた。
天幕の入り口で剣を構えつつも足がすくんでいた若い兵士――その前にリュディガーは立った。ゆらりと剣先を向けると、若い兵士も怯えた目をしながらもリュディガーに対して構えた。
「……すまない」
そんなつぶやきに意味はない。それでも、リュディガーの口からそれだけが零れ落ちた。
「く、来るなっ」
少数とはいえ、得体の知れないリュディガーたちに、訓練された兵士も平静は保てなかった。
動揺から大きくぶれる剣先。リュディガーは素早く踏み込むと、相手の軍用剣を跳ね飛ばした。実戦慣れしていない兵士など、武術の師であるリゴールの動きに比べるべくもない。それはあまりに呆気なく、リュディガーの方が驚きを隠せなかった。
ただ、そんな一瞬の隙に、リュディガーの背後から突きかかる気配を感じた。その一撃を振り向きざまにかわすと、リュディガーの剣は相手の脇腹にめり込んだ。それは、斬るという感覚ではなかった。
まるで撫でるように優しく、抵抗と言えるほどのものは剣を握るリュディガーには伝わらなかった。美しい刃には血の色ひとつつくこともない。
だから、あまりに実感が湧かなかった。
この手がひとつの命を奪ったのだと。
けれど、眼前には脇腹から胸に走った刀傷から、止め処なく血を流して倒れる兵士の体がある。ゆっくりと、時が遅れてやってくるような感覚だった。
リュディガーが背を向けた若い兵士が跳ね飛ばされた剣を拾い、無我夢中で叫びながら突進してきた時、彼の首を炎の輪が絞めた。
「あ……がっ……」
じゅう、と肉の焼ける臭いがした。白目を剥き、剣を取り落とした兵士のそばにマルティが軽やかに着地する。
「油断しちゃ駄目ですよ、リュディガー様」
ニコ、といつものように親しげに笑う。そのそばでは――。
「あ、ああ」
返事ともつかない声を漏らすリュディガーの耳に、僅かに生き残っている兵の悲鳴が聞こえた。
兵士たちの視線の先は上空だった。空にふわりと浮かぶのはフルーエティだ。彼の髪と同じ青みがかった銀の魔法円が闇夜に星屑のようにして浮かぶ。
フルーエティが手を振り上げた瞬間に、天幕の天井は破れ、保存食の詰まった雑嚢や木箱はいっせいに上空へと浮かび上がった。フルーエティはそれらをすべて魔法円の中に取り込むと、それを奇術のようにして消し去った。
「悪魔……悪魔だ!!」
そんな光景を、リュディガーは地上から見上げていた。あの悪しき存在を神々しくも感じてしまうのは、自分が穢れたからなのだろうか。