*14
崖に立ち、リュディガーは生ぬるい風に吹かれる。背後にフルーエティがいると気配でわかった。フルーエティはいつも、リュディガーの影のようにして寄り添う。
リュディガーは曖昧な色の空を見上げたままで口を開いた。
「エティ、お前には私の心が透けて見えただろう? 戦いを前にしたこの期に及んで情けないと思うか?」
人死にを自分が引き起こす。そのことを思うと手の震えが止まらない。
もしかすると、フルーエティならば誰も殺さずに父一人くらいは助け出すことができるかもしれない。けれど、それでは他の臣や民を見殺しにすることになる。それがわかっていて一人で抜け出す父ではない。
だから、そんな手は使えない。真っ向から敵兵を蹴散らし、包囲を解かねばならぬのだ。
「そうだな」
と、フルーエティは言う。あまりにはっきりとした物言いに、リュディガーは少し可笑しくなった。
「そうか。情けないか。駄目だな、私は……」
リュディガーは口元に自嘲の笑みを浮かべた。
フルーエティには、リュディガーの心が他者の死を恐れることが伝わっている。口でどう答えようと、人の死に心を痛める。奪う命を背負いきれない脆さを見抜かれている。
人が死ぬのは怖い。けれど、そんな自分の心に合わせていては誰も救えないのだ。心を置き去りにして成さねばならぬこともある。
「……私の感情とは別に、父様と家臣を助けるために必要な方を選ばなければならない」
一時の自分の情けが父や民を殺してしまうのなら、苦しくても選ばなければならない。命は命、けれど自分にとってはどの命も同じ価値ではないのだと。結局は身勝手な選択をするしかないのだ。
それは、自分に言い聞かせるための言葉であったかもしれない。
それからしばらくして、フルーエティは崖の上で腕を大きく振るい、魔法円を描き出した。生命があるかのようにして魔界の地面に広がって行く魔法円は、リュディガーたちをすっぽりと囲んだ。魔法円がこれほどまでに広がったのは、リゴールの騎竜ライムントがいたせいだろう。今回、地上へは三将も共に行くのだ。
「今回はリュディガー様の仰る糧秣を焼くことが任務だ。あまりハメを外すな」
リゴールがマルティに釘を刺した。マルティは肩をすくめる。
「焼くのは得意だからな。コンガリ焼いてあげるよ」
そんな二人のやり取りを、リュディガーはざわつく胸を押さえながら聞いていた。そうしているうちに、魔法円は彼らを地上へ送り出す。リュディガーの目には恋しい地上の光だ。
僅かに目を眩ませながら空を仰ぐと、隣でピュルサーが呻いていた。
「ま、眩し……」
「久々だもんなぁ」
と、マルティも目を擦った。そんな様子にリュディガーはこんな時だというのに少し和んだ。
「フルーエティ様、ここは地上のどの辺りなのでしょうか?」
リゴールは冷静に問う。フルーエティも今は以前とは違い、いつもと変わらぬ装いだった。青みがかった銀髪が日の光を浴びて今は白銀に見えた。
リュディガーは祖国のすべての土を踏んだことがあるわけではない。けれど、ここは祖国ファールン公国だと肌で感じた。冬の色褪せた草が広がる野に彼らはいる。
「ここはお前の父がいるトゥルム砦から北東にあるアイデクセ平野だ。使い魔の情報によれば、ここに駐屯兵がいる。それが砦を囲む前線の兵へ糧秣を運ぶ輸送部隊だろう」
アイデクセ平野なら、その先にはドロッセルの町がある。公都に次ぐ賑わいを見せる町だ。そこでナハト兵が物資の強奪をすれば、本国へ戻るよりも効率よく調達できる。すでに町から搾り取ったのではないだろうか。
だとするなら、その糧秣は本来ファールン公国のものであったのかもしれない。焼いてしまうのは無益なことだとも考えられる。
実際、篭城をしている父や家臣たちは飢えているはずだ。その糧秣を運べれば有効に使えるというのに。
「エティ、やはり糧秣は焼かずに奪えるだろうか? それをトゥルム砦へ送ることができたらいいのだけれど……」
リュディガーがそう言うと、三将はそれぞれに顔を見合わせた。フルーエティは深く嘆息する。
「できるが、それをしようと思うならば皆殺しは覚悟せねばな」
「え……?」
「奪うというのはそういうことだ。兵を生かしたままで奪えば、兵たちはそれを補充すべく町へ向い、加減を知らぬほどの搾取するだろう。そこではやはり抵抗した民が死ぬ。同じことだ」
ナハト公国の兵か、掠奪に抵抗する自国の民か。どちらかの命を選べというのなら、この選択は仕方のないことなのだろうか。
「わかった。ただし、戦意を失って投降しようとする者の命までは取らないでくれ」
悲痛なリュディガーの言葉がどの程度伝わったのかはわからない。マルティは瞳を輝かせ、リゴールとピュルサーも口元を引き締めた。
「御意のままに」
そこでフルーエティは三将に待機を命じた。半時だけ待て、と。
「エティ?」
小首をかしげたリュディガーに、フルーエティはにこりともせずに言った。
「迷うなら、護りたいものを思い描け。あの娘にでも会いに行けばいい」
ティルデ。
居場所を失くしたファールンの民。
そう、この戦いは彼女の夢へと続くものにもなるはずなのだ。
リュディガーはフルーエティを見上げてクスリと笑った。この鉄面皮の下で細やかな配慮をしてくれているのかと思うと、少し複雑だった。
フルーエティは一瞬顔をしかめたけれど、すぐに真顔に戻り、リュディガーに向けて手をかざした。
グラ、と視界が揺れた次の瞬間にはリュディガーは、あのきこりの小屋がある森にいた。使い魔の鴉が、小屋の屋根の上でカアと鳴いた。
「……私たちがここを離れてから地上ではどれくらいの時間が経過しているんだ?」
あの後、リュディガーはしばらく魔界に滞在した。だからそれがわからなかったのだ。
「一日だけだ」
たった一日。けれど、長く会っていないような気にもなった。
「俺は外にいる」
フルーエティがそう言ったのは、ティルデに好かれていないと察しているからだろうか。そう思ったけれど、フルーエティもティルデが苦手なのではないかという気もした。
「ああ、少し行ってくる」
リュディガーは一人、小屋へと近づいた。扉の前に立つと、中からはごそごそという音がした。
「ティルデ?」
トントン、と控えめに扉を叩くと、元気な足音がして扉は勢いよく開いた。
「リュディガー!」
ひと目見て掃除をしていたのだとすぐにわかる。手には汚れた雑巾を持ったままだった。それを握り締め、ティルデは嬉しそうに笑っていた。リュディガーも微笑んで返す。
「大丈夫だった?」
「うん、もちろん! 薪もあったし、あたたかくしてたわ。ここ、ちょっと埃っぽいけどそれを除けばなかなか快適ね」
元気な彼女の姿にリュディガーも心が安らぐ。それが表情にも表れていたのではないだろうか。
「そうか、よかった。でも、喉にはよくないかな?」
「あはは、うがいしなくちゃね」
声を立てて笑うと、ティルデはじっとリュディガーを見上げた。そのまっすぐな眼差しにリュディガーの方が戸惑う。
「どうしたの?」
ティルデはううん、と言って髪を揺らした。
「会えて嬉しいって思っただけ」
「え?」
「会いたいなって思っていたから、伝わったのかなって」
少しうつむいてそう零す。トクリ、と胸が疼いた。それは、いつもとはどこか違う、言いようのない痛みであった。
フルーエティがティルデに会いに行けと言った意味が少しわかった気がした。護りたいと思う気持ちは、こうして顔を合わせるたびに強まっていくのかもしれない。
「……私も、ティルデの顔が見れてよかったよ。もう少し落ち着いたら改めて会いに来るから、そうしたらまた歌を聴かせてほしい」
「うん、待ってる。いってらっしゃい」
どこか寂しそうに、それを隠すようにしてティルデはうなずいてくれた。名残惜しくはあるものの、小屋の中へ入ったら時を浪費してしまう気がしたから、入り口で別れた。
小屋から離れると、背後にフルーエティが立っていた。
「もういいのか?」
「ああ、ありがとう」
心は決まった。少なくともこの時はそう思えたのだ。