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*9

 リュディガーは見知らぬ彼女の手を引いて町の中を駆けた。

 はあ、はあ、と弾む息遣いが足音以上に大きく感じられる。女性の身でこの疾走は相当に苦しいかもしれない。

 それでも、あの軍人たちを振りきってしまわなければならなかった。もう少しだけ、せめて身を隠せる場所まで行かなければとリュディガーは足を止めなかった。


 石畳を蹴るようにして、溶けかけの雪を避けつつも急いだ。周囲の人々が走る二人を振り返る。駆け落ちでもしているように見えただろうか。

 女性は細身ではあったけれど、たおやかな外見以上に体力があった。どこの誰とも知らぬ青年と逃げているというのに、泣き言も言わずに必死で走る。リュディガーが彼女を救おうとする心だけは伝わったからこそ、抗うことも訊ねることもせずにいるのだろうか。


 後から軍人たちが追ってくる気配はない。リュディガーは町の水路にかかるアーチ状の橋の半ばで後ろを振り返った。やはり、追っ手はない。フルーエティが手を打ってくれたのかもしれない。

 噛みつくようなことを言いながらも、結局はフルーエティの庇護がなければ何もできない。そんな自分を感じながら、リュディガーは軽く首を振った。


 そうして、二人はやっと路地の隙間に身を潜めると、冷たい壁を背にして息を整えた。二人の吐く白い息がその狭い空間を染め上げる。寒さから、汗が引くのも呼吸が落ち着くのも早い気がした。

 女性はちらり、とリュディガーに目を向ける。こうして見ると、まだ少女だ。正確には、大人と少女の間というところだろうか。


「ありがとう」


 呼吸が整うと、はっきりと澄んだ声で言った。彼女の声はとても美しい。リュディガーはそう思った。

 彼女は、あんなことの後だというのに勝気に微笑んだ。


「戦争が始まって、急にこの国じゃファールン国民は悪魔の民だとか言い出してあの調子なの。なんとかかわしてたんだけどね、今日はついてなかったな」


 戦争が始まる前は宗主国のもとに連なる公国、それも隣国として友好関係を築けていた。それが急に敵対することになって、ナハト公国にファールンの民が滞在したままであっても不思議はなかった。魔女狩りと称し、そうしたファールンの民を迫害し始めたという――。

 リュディガーはその事実に目が眩むようだった。何が悪魔だ、と。


 公子であるリュディガーも、落ち延びたあの瞬間までは悪魔と出会ったこともなかった。誠実な父と悪魔が繋がるべくもない。それでもナハト公国はファールン公国を悪魔の国と決めつけ、滅ぼそうとしているのだ。

 黙ったままのリュディガーを、彼女は覗き込みながら言った。


「……ねえ、もしかして、あなたもそうなの? ファールンから来たのではないの?」


 眼前の美しい少女は、自国の民である。やはり、リュディガーが護るべき者だ。そう思うと、ふと胸に愛しさが湧くような気がした。


「ああ、そうだよ。私はファールンの者だ」


 リュディガーがそう答えると、彼女は輝くように無邪気に笑った。


「やっぱり! よかった、仲間に会えて。ねえ、あたしはティルデ。あなたは?」


 一瞬、名を偽ろうかと思った。けれど、すぐにその必要はないと思った。


「リュディガーだ」


 名乗ると、ティルデは口元に手を当てて目を瞬かせた。


「あら、公子様と同じ名前ね。でも、あなたの方がずっと年上だもの。そう名づけられたのはあなたの方が先よね」

「そうだね」


 クスリ、と苦笑した。ティルデも一度笑って返すと、それから少しだけ表情に(かげ)りを見せた。


「さあ、これからどうしよう? あたしね、楽団で歌を歌っていたの。諸国を旅して、いつか名を馳せる歌い手になりたいって思ってた。なのに、この戦争でしょ。あたしはまだ夢に届かないままだもの。こんなところで死にたくないわ」


 歌を生業とする――だから彼女の声はこんなにも心地よく胸に染みるようにして響くのかと思った。夢を語る彼女の瞳は力強い。


「この町は国境付近だ。このまま滞在していては危ないな」


 ティルデはうん、と答えてうつむいた。


「ここからファールンに戻ることもできないし、他の国に逃れる方がいいんだと思うけれど、下手に動いたらまた軍人に見つかってしまうわ。中央へ行けばもっと危険かもしれないし……」


 リュディガーはどうとでもなる。けれど、ティルデを魔界にまで連れていくことはできないだろう。

 たとするなら、どのようにして彼女を匿うか。少なくとも戦争が沈静化するまでは安全な場所へ逃がしたい。


「でも――」


 不意にティルデがささやく。


「リュディガーが一緒なら心強いわ」


 ファールンの民であるだけに魔女というレッテルを貼られ、命の危機を感じながら過ごしていた彼女。

 こうして得た同胞を心強く思う気持ちが伝わる。


 リュディガーはトクリ、と胸が小さく打つのを感じた。初めてかもしれない、と彼は思った。

 誰かから頼られたことが。


 父や母、兵や家臣に護られ、落ち延びた後もフルーエティの加護を受けて過ごした。リュディガー自身が頼られ、他人に何かを与えられる存在であったことなどないのだ。

 自分を頼り、共に乗り越えようとする彼女をどうしても護らねばならないとリュディガーは強く心に誓った。




 日が暮れ始めてようやく、リュディガーは路地の隙間から通りを見遣った。ここまで捜索の手が延びてこないのはフルーエティのおかげだとするなら、そこまで神経質にならなくても逃げおおせるのかもしれない。


「当たり前だ。お前らの隠れ方など子供の遊びと変わりない」


 背後で冷淡な声がした。ティルデが突然のことに悲鳴を上げかけたのでリュディガーは慌てて彼女の口を塞いだ。指先に滑らかな頬が当たり、手袋(グローブ)越しに柔らかな唇の感触が伝わって、リュディガーはすぐに手を放した。幸い、ティルデはそれ以上騒がなかった。


 まるで気配も何もなく、フルーエティは黒い瞳をこちらに向けて立っていた。まるで影から湧き出たような漆黒の人物に、ティルデが怯えたのも無理はない。リュディガーはそっと彼女に告げる。


「彼は私の仲間だ。心配は要らない」


 そうは言っても、彼女はすぐに警戒を解かなかった。それはフルーエティの整いすぎた表情に親しみを少しも感じられなかったからだろう。彼が愛想など振り撒くはずもなく、抑揚のない声で言うのだ。


「いつまでそうしているつもりだ? お前はどうしたいのだ?」


 いつもと同じような問いかけ。

 リュディガーは落ち着いて答えた。


「彼女を……ティルデを安全な場所に逃がしたい。エティ、力を貸してくれ」


 すると、フルーエティは失笑した。その表情に、リュディガーは戸惑う。

 さも馬鹿らしいことを言われたと、彼の失笑が物語る。結果として結局はフルーエティを頼るくせに、と粋がっていた自分を恥じた。

 ティルデがリュディガーの服の裾をキュッとつかむ。


「頼む」


 駄目押しをするようにリュディガーは言った。

 フルーエティは嘆息すると、リュディガーを憐れむような目をした。傲慢で愚かな人の子は、自分の身さえ護れぬくせに他者を巻き込むのかと。だとしても、ここでティルデを放り出すことなど考えられなかった。


「……とりあえずは町の外へ出るぞ。少し歩けば川沿いに水車小屋がある。そこを目指すか」


 そこでようやくティルデが口を利いた。


「でも、町から出るのに検問があるはずよ?」


 けれど、彼女をフルーエティは一瞥しただけで返事をしなかった。ティルデは言葉に詰まる。そんな彼女にリュディガーが代わって声をかけた。


「大丈夫だから」


 フルーエティならなんとかしてくれる。彼は人ではなく、力を持つ悪魔なのだから。

 そんなことは彼女には言えないから、上手く説明もできずに大丈夫だとそれだけを繰り返した。

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