【終幕 巫山の夢】
全てが終わった後、火乃華に電話で顛末を伝えると、彼女は噛み締めるように沈黙した後、いつもの陽気な口調でこう告げた。
『和君ってば本当に女ったらしね~、血は争えないな~』
その言葉の意味を、三年後に痛いほど思い知らされる事など、当時の和樹に分かる筈もない。
ただ、事件から数日後、これから電話口の少女と暮らすために、あれこれと家具を選んでいた和樹の元へ、火乃華から再び電話が届いた。
『石橋警部ね、警察を辞めたってさ』
「……そっか」
開口一番、真面目な口調でそう告げられても、和樹はあまり驚かなかった。
それが不服だったという訳でもないが、火乃華はその経緯を細かに語る。
『本当は大々的に十四年前の事を告白して、遺族に謝罪とかするつもりだったらしいんだけど、マスコミに騒がれるのを嫌った警察上層部の圧力で、口止めされた上でクビにされたんだってさ』
「…………」
和樹は不祥事を揉み消した組織の厚顔さより、石橋の事を哀れに思い言葉を失った。
こんなにも早く犯人の元へ辿り着けたのは、石橋が墓穴を掘り、和樹の元へ不良達を差し向けたりしたからだ。
藪をつついて蛇を出す。余計な真似さえしなければ、彼が犯人だと露見しなかった可能性もあったのに。
けれど、そうせずにはいられないほど、石橋は怯え続けていたのだろう。
犯した罪が何時バレて、キャリアも官職も何もかも、全て失ってしまうのかと、十四年もの間ずっと。
エリートコースの刑事課を辞めて、事務職の会計課に移ったのも、そんな心の現れの一つ。
人殺しの罪を隠しながら、自分こそが悪だと知りながら、正義を行う図太さが、彼には存在しなかったから。
だから今回の事もあり、彼は世間から糾弾されるという罰を受けて、罪悪感という重荷を下ろしたかったのだろう。
けれどその決意は、彼の意思ではない、彼が仕えた組織の意向によって、踏みにじられてしまった。
まるで、和樹が最後に吐いた呪いを実現するかのように。
『和君、もしかして同情してる~?』
「……まさか」
内心を察し、尋ねてきた火乃華に、和樹は一瞬黙ったが否定した。
「どうあれ、あの人はメリーさんを殺したんだ。許す気はないよ」
彼女が妖怪として生まれ変わり、彼と出会う切っ掛けを作ったという意味では、感謝するべきなのかもしれないが、それとこれとは話が別だ。
そして、罪の重さに苦しむ事こそが、石橋に与えられた罰であり、唯一の贖罪なのだから。
「メリーさんの家族の事を思うと、あの人に自白させる訳にはいかないしね」
もしも、十四年前の轢き逃げ事件の真相を世に晒せば、その被害者である少女の家族も、マスコミに押しかけられ、古傷を抉られる事になるだろう。
そうして両親が悲しむ姿など、電話口の少女は望んでいないのだから。
「だからきっと、これで良かったんだよ」
妖怪の少女は恨みを晴らせぬ代わりに、消えずに残る事が出来た。
人間の少年は殺される危険性を背負う代わりに、側に居てくれる人を得た。
犯人は世間から糾弾されぬ代わりに、罪を償う機会を失った。
最善の結果とは決して言えはしない、無様な結末だったとしても、誰の血も流さずに済んだ事だけは間違いではなかったと、和樹は思いたかった。
『そうね~、和君が納得してるなら~、お姉ちゃんはそれでOKよ~』
「うん、ありがとう」
火乃華のふざけた口調の裏にある思いを感じて、和樹は心からの礼を告げる。
下手をすれば、妖怪が人間を殺すのを、退魔師の息子が見過ごすどころか協力してしまうという、前代未聞の事件に発展する所だったのだ。
そうなれば、事情を知っていた火乃華は当然、責任を取らされただろう。
なのに、黙って彼に任せてくれた従姉に、和樹はただ感謝するしかなかった。
『それはそうと和君、明日ちょっと時間取れるかな~?』
「明日? う~ん、時間帯にもよるけど……」
『出来れば付き合って欲しい事があるのよね~、和君とも無関係じゃないし~』
そう前置きし、火乃華が告げた用件を聞いて、和樹は一も二もなく頷いた。
彼の中にまだ残っていた幾つかの疑問。それを晴らすためにも、赴かなければならなかったのだから。
◇
三月も半ばとなり、異動の時期を迎えた大場菜市の警察署。
新しく訪れる者と、遠くへと去って行く者に混じって、一人の老人が警察手帳を返却し、長年働いた職場に永遠の別れを告げていた。
「白鳥さん、お疲れ様でした~」
温かな日の光に目を細めながら、警察署から出て来た元警部補となった老人に、門の前で待ち構えていた火乃華は深く頭を下げた。
その横に立つ和樹も、黙って頭を下げるのを見て、白鳥はくすぐったそうに微笑する。
「こんなロートルにわざわざ礼を言いに来てくれるなんて、嬉しいねえ」
「今まで随分とお世話になりましたからね~、よかったこの後飲みにでも行きませんか~?」
ビールを傾ける仕草をして、火乃華がそう誘うと、白鳥は笑いながらも首を横に振った。
「悪いが今日は、家で女房と娘夫婦がパーティーを開いてくれるんでね、同僚達の誘いも断ったくらいなんだ」
「そうでしたか~、じゃあ仕方ないですね~」
火乃華は残念そうにしつつも、一家の団欒を邪魔しては悪いと身を引く。
そうして、もう一度重ねて礼を告げる彼女に、白鳥も手を上げて応え、踵を返し去ろうとする。
そんな老人の背中に、和樹は静かに問いをぶつけた。
「貴方は、石橋警部が犯人だって事を、知っていたんですね?」
唐突な、だが確信を込めた声を聞いて、白鳥は足を止めた。
そして、数秒噛み締めるように沈黙した後、振り向いて尋ね返した。
「どうしてそう思ったんだい?」
その瞳に誤魔化そうという意思は感じられず、生徒の答えを待つ教師のような、優しげな光だけが宿っていた。
だから、和樹は物怖じする事なく、自分の推理を語った。
「最初に疑問を覚えたのは、このファイルを借りた時です」
十四年前の轢き逃げ事件について書かれた捜査資料。
借りっぱなしになっていたそれを取り出し、和樹は受け取った時の事を思い出す。
「十数年前に少女が死亡した交通事故――たったそれだけしか情報がなかったのに、貴方は迷いもせず机の引き出しからこれを取り出しました」
迷宮入りして時効を向かえ、もう誰も捜査をしていない事件の資料。
そんな物の内容を覚えていて、後生大事に机の引き出しに入れておくなど、普通ならば有り得ない。
何か特別な、拘りや執着でもない限り。
「当時事件を担当していたから、解決出来なかったのが悔しくて、未練があったのかな――という程度にしか、あの時は思いませんでした」
引っ掛かりを覚えても、確認する必要を感じるほどではなかった。
だが、その後にもう一つ、違和感を覚える行動があったのだ。
「夜中に彷徨いている所を、車で送って貰った時の事です。あの時、白鳥さんは僕に捜査の状況を聞いてきましたよね」
「あぁ、でもそれのどこが変なのかな?」
少しだけ意地悪な顔をし、とぼけようとする老人に問われ、和樹は首を横に振る。
「聞こうとした事自体は、決して変じゃありません。捜査資料を貸し出したんですから、気になって当然です」
そこで一度言葉を切り、和樹は問題点を口にする。
「けれど、部外者である石橋警部が同席しているのに、話を持ち出した事がおかしいんです」
詳しく語らなかったとはいえ、妖怪絡みの件だとは伝えてあった。
となれば、同じ警察官だが部署は違い、薄々知っているとはいえ、退魔師の協力者ではない石橋に、妖怪が関わっている話を聞かせてはならないのだ。
それが、世に混乱をもたらさないために、退魔庁が定めたルールなのだから。
長年協力者を務めてきた白鳥が、それを知らぬ筈もない。
「ならあの時、貴方は故意に捜査状況を石橋警部に聞かせたとしか思えない」
十四年も前に起き、もう時効を向かえて解放された筈だった、彼の犯した罪。
それを、退魔師とか言う少年が、何故か今更掘り返そうとしていた。
その事実に、石橋は僅かに怯えながらも、どうせ自分まで辿り着く筈がないと、高をくくっていた事だろう。
なのに、少年は警察ですら掴めなかった犯人の車種を、数日で調べ上げていた。
まさか、被害者の少女が妖怪に成って蘇り、その口から語ったなどと、石橋には分かる筈もない。
ただ、退魔師という不気味な存在に恐怖し、自分の罪が暴かれるのではないかと焦燥感に苛まれて、口封じを企むという暴挙に出た。
その結果、事件は早期に幕を下ろし、そこまで犯人を追い詰めたのが――
「全てを知っていた、貴方だったんですよね」
そうでなければ、諸々の行動に理屈が通らない。
確信を込めて言い切った和樹が、気付かなかった点があるとしたら、たったの二点。
あの日、石橋が二人切りの飲み会を目論んだのは、個人的な送別会という名目の元に、白鳥を酔わせて捜査状況を聞き出そうとの狙いがあった事。
そして、和樹を車で拾うという偶然がなかったにしても、白鳥は遠からず捜査状況を尋ねて、石橋に吹き込むつもりだった事。
そんな些末を除き、彼の推理は全て的を射ていたから、元老刑事はようやく認めて拍手を送った。
「お見事だ、大した名探偵っぷりだね。末はシャーロック・ホームズかな」
「全てが終わった後に、ようやく気付けただけですから、せいぜい金田一耕助止まりですよ」
褒めてくれた老人に、少年は謙遜するように告げる。
白鳥はそれを聞いて微笑しながら、ゆっくりと深く頷いた。
「君の言う通り、私は石橋君があの事件の犯人なのだろうと思っていた。けれど、証拠は何もなかったんだよ」
とある事件の捜査をするため、ベテランの白鳥とエリートながら新米の石橋が、コンビを組んでいた。
そんなある日、担当の事件とは無関係の交通事故が起き、その日から彼の若き相棒の様子が変わった。
「昔も今と変わらず、無愛想な奴だったからね。他の同僚達は気付かないくらい、些細な変化でしかなかったけれど」
車の運転が丁寧になったり、前よりも子供を毛嫌いするようになったり。
不機嫌そうな顔で隠しているだけで、本当は臆病な若者の変化を、敏腕刑事の嗅覚は見逃さず、長年の勘から石橋が轢き逃げ犯なのだと看破した。
「けれど、やっぱり証拠は何も出なかったんだよ」
「だから見逃したと?」
和樹が問うと、白鳥は何処か寂しげに笑って頷いた。
「どうして、自首を勧めなかったんですか?」
例え証拠がなくとも、今回のように見事な追い詰めを見せた、白鳥の手腕を発揮すれば、当時新米にすぎなかった石橋など、簡単に自白させられた筈だろうに。
そう憤る和樹に、老いた元警官は眩しげに目を細めながら告白する。
「正義を成せるほど、私は強くなかったんだよ」
「…………」
自分より何倍も年上の男が、まるで泣き出す寸前の赤子のように、辛そうに顔を歪めるのを見て、和樹は言うべき言葉を失った。
「例え、それが正しい行いであろうとも、身内に不利益を振りまくような輩は、組織では決して望まれない」
正義のためならば、尊敬する上司だろうと、親しい親友だろうと、愛する恋人だろうと、罪を暴き法の裁きを加える。
そんな正義の警察官が居れば、民衆は拍手喝采を送るだろう。
けれど、そんな人物と親しくなりたいと願う者は居るまい。
だって、自分が何かのミスで罪を犯してしまったら、そいつは決して許してはくれないのだから。
「それは警察に限らず、人が大勢集まれば、何処もそうなってしまうんだよ」
「…………」
薄汚い組織の理論を突き付けられても、和樹は何の反論も出来なかった。
彼もまた、退魔師という閉鎖的な組織に、思う所があったのだから。
「石橋君を自首に追い込む事は、恐らく可能だったろう。けれどそうしたら、私も退職に追い込まれただろうね」
ただでさえ、石橋の父親は警視庁の上層部に居た男なのだ。
息子の輝かしいエリート街道に泥を塗り、自分に恥をかかせたりしたら、決して許しはしなかっただろう。
汚職の濡れ衣でも着せられて、懲戒免職に追い込まれるのがオチだ。
「あの頃は、娘が大学に進学しようって頃でね、私は職を失うのが恐ろしかったんだ」
警官一筋で四十歳を超えた男が、今更他の職業になど就ける筈もなく、仮に見付かっても同額の給料など望めない。
だから、彼は自分と家族の生活を守るために、正義に背を向け、悪を見逃した。
「それが、私の十四年間背負い続けた罪だよ」
犯人である石橋と同じく、白鳥もまた、己の信念を捨てた事に苦しみ続けてきたのだろう。
だからこそ、退職を目前とし、守るべきモノもなくなった今、犯人を追い込む形で協力したのだ。
そんな白鳥に、和樹が告げたのは感謝の言葉ではなく、冷たい侮蔑だった。
「卑怯です、貴方は」
「…………」
「警察官としての信念も裏切って、結局同僚も裏切って、自分だけ重荷を下ろして楽隠居を決め込もうなんて、卑怯ですよ!」
「そうだね、私は最低の卑怯者だ……」
少年らしい潔白さを顕わにし、怒鳴る和樹から、白鳥は堪らず目を逸らした。
「中途半端な良心の呵責に苛まれて、資料編纂課に――退魔師の協力者になる事を願ったのも、人間の相手をする事に疲れただけだったからね……」
少女を轢き殺して逃げた同僚、それを保身のために見逃した自分。
正義を行うべき者が、悪を行い堂々と蔓延っている。
その理不尽に耐えきれなかった男は、妖怪という分かり易い悪を求めた。
「退魔師の味方をして、悪い妖怪と戦っていれば、私も正義の味方に成れるとでも思っていたのかな」
遥か遠くを見詰める老人の瞳には、純粋に正義の味方を信じ、警察官に憧れた少年時代の自分が映っているようだった。
そう邂逅する白鳥の言葉を、和樹は静かに訂正する。
「退魔師は、正義の味方なんかじゃありません。そして、妖怪も悪じゃありません」
凶悪な妖怪に父親を奪われ、疑いもせず憎んでいられた数日前の彼ならば、白鳥に同意を示したかもしれない。
けれど、罪もない被害者で、自分なんかのために復讐を思いとどまってくれた、優しい電話口の少女と出会えた今なら、和樹は迷わずそう言えた。
「……そうか、そうだね」
和樹に頷き返す白鳥は、胸の内でいったい何を思ったのだろうか。
それを語る事はなく、老人は再び背を向けて、今度こそ振り返ることなく去って行った。
その背中を見送る和樹の横で、黙って見守っていた火乃華が、遠慮がちに口を開く。
「和君は知らなくて当然だけど、白鳥さんは妖怪の事件が起きるとね、寝る間も惜しんで捜査に協力してくれたのよ」
熱心に捜査を手伝った所で、給料に手当が付く訳でもない。
黙って退魔師が妖怪を捕まえるのを待ち、それを専用の留置所に送る仕事だけしていればいいのに。
白鳥は老体に鞭打って、元刑事課の手腕を発揮して、犯人の割り出しに何度も貢献してくれた。
だからこそ、火乃華はこうして見送りに来たのだから。
「…………」
だからって、罪が許される訳じゃないでしょ――という言葉を、和樹は喉の奥に呑み込んだ。
それは一番、白鳥本人が分かっているからこそ、罵声も甘んじて受け、言い訳もせずに去って行ったのだから。
いつの間にか老人の背中も見えなくなり、和樹は火乃華と共に警察署を後にしながら、胸の内から湧き上がってきた言葉を告げる。
「やっぱり、火乃華姉さんの手伝いをしてもいいかな?」
それは即ち、妖怪と戦う退魔師になるという事。
「私としてはありがたいけど~、どうしてなの~?」
あれほど嫌がっていた退魔師稼業を、今更になって突然やると言われ、心境が変化した理由が分からず、火乃華は問い返す。
和樹はそれに、誤魔化す訳でもないが曖昧な答えを告げた。
「色々だよ……」
本当に様々な、異なる理由が積み重なった上での決断だった。
今回の事で、火乃華には大きな恩が出来たから、それに報いたいと思った。
ずっと続けてきた格闘術の修行を、無駄にしたくもなかった。
霊力がゼロの出来損ないと蔑んできた者達を、見返してやりたいという気持ちも、押し隠していただけで本当はあった。
幼い頃に従妹とした、一緒に退魔師になろうという約束が、頭の片隅に引っ掛かっていたのかもしれない。
だが、一番の理由は――
「もしも、今回みたいにさ、悲しんでいる妖怪が居たら、手を差し伸べたいって思ったんだ」
普通の退魔師達は、妖怪は秩序を乱す敵と見なし、退治する事しか考えない。
多くの場合において、それは正しいのだろう。
けれど、電話口の少女のような、罪もない悲しい存在が居たのなら、その涙を拭ってやりたいと思ったのだ。
「僕に出来る範囲なんて、たかが知れていると思うけど」
何時か、己の無力さを痛感し、道を諦める時が来るかもしれない。
そうでなくとも、普通の幸せな生活を夢見る彼が、退魔師という特殊で過酷な仕事を、長く続けられるとも思えない。
けれど、例え偽善と笑われようと、彼の背後で泣いていた少女のような存在を、少しでも救いたいと願った気持ちは本当なのだから。
「だから僕は、退魔師になりたい」
正義を行う訳でも、悪を挫くためでもなく、ただ誰かの涙を止めたくて、少年は戦う道を選んだ。
もっとも、そんな決意とは裏腹に、彼は度し難い変態妖怪とばかり出会い、当初の思いを忘れそうなほど辟易する事になるのだが。
「……そっか、じゃあお願いね~」
揺るがぬ決意が瞳に宿っているのを見て、火乃華はただ笑って承諾した。
和樹はそれに頷き返すと、もう一つの別れを告げるために、早足で歩き出した。
◇
「お荷物は以上でよろしいでしょうか」
「えぇ、それではよろしくお願いしますね」
家具やダンボールを運び終え、確認を求めてきた引越業者に、初老の婦人は頷き返した。
長年過ごした家から物がなくなり、ガランとした様を見ると、どうしても寂寥感が込み上げてくる。
土地を売るために、取り壊す事が決まっているから尚更だった。
彼女は最後に一度、娘達の伸びていく身長を刻んだ柱をそっと撫でると、もう二度と見る事はないだろう我が家に背を向け、外で待っている家族の元へ向かった。
引越業者のトラックは先に出発しており、後はもう、彼女達が乗用車で引越先に向かうだけだ。
助手席に座り、夫が車を発進させるなか、彼女はもう一度だけ思い出の詰まった家を振り返る。
その玄関先に、一人の少女が立っていた。
波をうつ蜂蜜色の長い髪と、空を思わせる青い瞳の、外国人らしき小柄な少女。
何処かで見かけたかもしれないが、記憶には残っていない、知らない子供。
なのに、その面影が懐かしいものと重なった。
とても見覚えのある、白いウサギのぬいぐるみを大事そうに抱えた、その姿はまるで――
「――い」
「うん? どうかしたのかい?」
ずっと昔に事故で喪った、娘の名前を呟いたように聞こえて、運転席の夫は妻に尋ねた。
だがその時には、彼女達の乗った車は角を曲がり、もう我が家も、その前に立っていた少女の姿も見えなくなっていた。
「……いえ、何でもないわ」
彼女はそう言って誤魔化しながら、ふと思い出す。
――遠くへ行っても、どうか幸せでいて下さい。
不思議な少年が残した、別れの言葉。
それと同じ事を、あの少女も言ってくれたような気がしたのだ。
「お見送り、もう終わった?」
事前に聞いていた住所へ辿り付いた和樹は、引越を終えた空き家に背を向けながら、携帯電話に向かって話し掛ける。
電話口の向こうからは、僅かに鼻をすする音が聞こえたけれど、和樹の問いに応える頃には、もうすっかり元気で明るい声に戻っていた。
『私、メリーさん。そういう訳で、今日のお昼はお蕎麦に決定なの!』
「引越先の隣人でもないのに、引越蕎麦を食べてどうするのさ」
和樹はツッコミつつも、蕎麦という単純だからこそ誤魔化しの効かない料理を、どう美味く作ろうかと考え始める。
そうして、アパートへと足を向けながら告げたのだ。
「じゃあ帰ろうか、僕らの家へ」
『うん、帰りましょうなの』
メリーさんも頷き、彼の背後に付いて歩き出した。
まだ数日しか過ごしていない、新しい街のまだ慣れぬアパートの一室。
そこが、これからずっと続く、二人の帰るべき居場所なのだから。
◇
「――という訳で、何とか事件も解決して、僕とメリーさんは一緒に暮らす事になったんだよ」
長い過去話をようやく語り終えて、和樹は乾いた喉を紅茶で潤す。
そんな彼に、小杜子は労うように拍手を送った。
「いやー、エエ話やん。最初『人が死ぬ話』って聞かされた時は、どんなバッドエンドがくるのかとヒヤヒヤしとったけど」
「ハッピーエンドとも言い切れないけどね」
皆が皆、何かを失ってしまったのだから、両手を上げて喜べはしない。
そう告げる和樹を見て、小杜子は笑って首を振った。
「謙遜する事ないで、影森君やなかったら、もっと酷い事になってたと思うもん」
「そ、そうかな?」
「うん、ウチやったら犯人と見逃した警官の二人、今頃は魚の餌か森の肥料になっとるわ」
「怖いよ! だから何でそう血を求めるのっ!?」
平然と殺害宣言をする小杜子に、和樹は怯えてツッコミながらふと気付く。
「でも、メリーさんを犠牲にするとは言わないんだね?」
恐怖のヤンデレである彼女なら、一番てっとり早い方法を取りそうなものだが。
そう問うと、小杜子はまた笑って首を振った。
「いややな影森君、流石のウチかて可哀想な女の子に酷い事なんてせんよ」
「そうなんだ」
「それに、メリーちゃんはホンマに可愛えしな~。ウチも一人欲しいくらいやもん!」
「…………」
結城さんて、やっぱりレズなんだね――という台詞を、和樹は辛くも呑み込んだ。
どうせ言った所で、「違うよ、ウチはヒカリちゃんが好きなだけで変態やないから!」と力説するのは目に見えていたので。
「それにしても、三年前にそんな事があったなんて驚きやったね。なぁ、ヒカリちゃん?」
小杜子は長い話を思い返しながら、愛しい親友に話を振る。
だが、当のヒカリはというと、声もなく項垂れ、拳を握り震えていた。
「…………」
「あの、ヒカリ? やっぱり退屈だったかな?」
従妹の尋常ではない様子を見て、和樹は遠慮がちに声を掛ける。
すると、ヒカリはゆらりと幽鬼のように立ち上がり、小さな声で呟いた。
「……るい」
「えっ?」
「……ずるい、ずるい、ずるーいっ! 何であの幼女とだけ、そんな良い思い出があるのよおおおぉぉぉ―――っ!」
沈黙から一転、アパートが震えるほどの大声を上げて、ヒカリは愛しい従兄に掴みかかる。
「私とはそんな思い出なかったでしょうが! 一生忘れられない、心に残るようなエピソードなんてなかったでしょうがっ!」
「いや、沢山あったよ。屋根の上からキックを放ったりとか、拳圧で遠くの蝋燭を消すとか、崖の上から雪玉を落として叩き割るとか――」
「それ全部必殺技の特訓じゃないのよ!」
それはそれで子供らしい良い思い出なのだが、ヒカリが求めているものとは違う。
「だから、もっと感動的で、もっと運命的で、二人が、その、こい……になるのは当然みたいな……」
「えっ、何?」
途中で急に声が小さくなり、和樹は聞き取れなくて尋ねる。
すると、ヒカリは顔を真っ赤にして拳を振り上げた。
「うるさい! 死んで詫びろこのペド和樹!」
「おわっ! 何で怒ってるの!?」
怒りのあまり涙まで流し、駄々っ子のように拳を振り回してくる従妹から、和樹は必死に逃げ回る。
そんな彼の前に、ずっと黙っていた実妹が、ゆらりと立ち塞がる。
「亜璃沙、ちょっとヒカリを――」
「……お兄ちゃん」
助けを求めようとした和樹は、彼女の紅い瞳に宿る、寂しげでありながら恐ろしい色に気付いて声を呑み込んだ。
そんな立ち竦む兄に、亜璃沙は慈愛に溢れた笑みを浮かべながら、妖力で怪しく光る両手を差し出した。
「……お兄ちゃん、一緒に、来世で幸せになろう」
「殺す気だっ!?」
「亜璃沙ちゃん、それウチのネタやで」
小杜子のツッコミに反応する事も出来ず、和樹はいきなり今生を終わらせにきた妹の魔手を、全力で避ける。
「亜璃沙までいきなりどうしたの!? 僕、何か悪い事したっ!?」
全く身に覚えがなくて問い掛けてくる鈍い兄に、亜璃沙はどこまでも優しく告げる。
「……生まれ変わっても、兄妹と知らず、キスしようね」
「嫌だよ! 何で来世までそんなトラウマを引き継がなきゃいけないの!?」
「……そして、次は私が孕ませる番」
「まさか僕が妹っ!? 何その立場逆転な輪廻転生!」
どうせなら、今度こそ赤の他人として生まれて何の問題もなく――とも思いながら、和樹は襲いかかってくる亜璃沙とヒカリから逃げまどう。
だが、狭いアパートの中で逃げ切れる筈もなく、直ぐに部屋の隅に追い込まれてしまった。
「和樹、どうしてツルペタだけで満足しなかったのよ……」
「……五年前の、もっとロリロリしてた時に、会いたかった」
己の貧乳を手で押さえ、悲しげに霊力の鎖を取り出すヒカリと、同い年で生まれた事を悔やんで涙を流しながらも、掌から妖力を漲らせる亜璃沙。
そんな二人の嘆きを聞き、和樹もようやく何で怒られているのかを理解する。
「待って、ちょっと待って! だから何度も言っているけど、僕はロリコンじゃないから!」
メリーさんに邪な思いを向けた事はないと、口を酸っぱくして言ってきた事を、改めて告げる。
しかし、それを聞いた従妹と実妹は、明らかに不審そうな顔をした。
「でもあんた、命懸けであの子を助けたりして……」
「……一生、振り向けなくても構わないって、言った」
嫉妬し拗ねて口を尖らせる二人の少女を見て、和樹は深く溜息を吐く。
「確かに言ったけど、変な意味はないよ。そもそも、僕はメリーさんと向き合う事が出来ないんだから、二人が疑っているような関係になる事はないんだし」
そう、仮に彼が心底から望もうとも、電話口の少女を抱き締め、口付けを交わすような事は不可能なのだ。
彼女が『メリーさんの電話』の妖怪で、その存在を維持するために、和樹の背後に取り憑き、その姿を見たら殺されてしまうという、絶対の呪縛が有る限り。
そしてもう一つ、少年と少女の間を阻む、どうしようもない壁が存在する。
「これはメリーさんと出会ってから、一年くらいしてようやく分かった事なんだけどね、彼女は成長しない――今のまま、姿が変わらないんだって」
和樹は見られないので、火乃華から聞いた話でしかないのだが。
成長期を迎えて彼の背がどんどん伸び、大人になっていくのに反し、彼女の姿は少女のまま、何も変わらなかったという。
これもまた、噂から生まれた始祖の妖怪である宿命。
「都市伝説の中でメリーさんは、電話を掛けながら近付いてくる『少女』と規定されてしまっている。だから、『少女』以上には成長出来ないんだろうって、火乃華姉さんが言っていた」
噂から生まれた以上、噂を逸脱する存在になってはならない。
だから彼女は、どれだけ歳を取ろうとも、和樹の背後に現れる『少女』でいなければならない。
見詰める少年の背中が伸びて、大きくなり、また小さくなって曲がり、最期の時を迎えようと。
「僕は本当にロリコンじゃないし、仮にそうだったとしても、メリーさん本人は嫌がると思うんだ」
子供を産めるかどうかも定かではない幼いその体で、和樹を愛し、彼の人生を縛り付ける事を、電話口の少女は望むまい。
だから、ずっと側に居て、彼の事が大好きで、他の女の子に嫉妬する事があっても、一線を超える事だけは決してしないのだ。
「寂しかった僕は、メリーさんと出会った事で救われた。そして、身勝手な理由でその復讐を諦めさせてしまった。だから一生、その責任を背負うと決めたけど、そういう関係には成れないんだよ」
成らない――と言わなかった辺りに、無意識の嘆きが隠されていたのかもしれない。
真意はともあれ、和樹はそう覚悟したのだ。
愛し合い子を成す事も、その笑顔を見る事さえ出来なくとも、死を迎えるその時まで、子供のまま生きていかなければならない電話口の少女を、養い守って生きていくのだと。
「そうだったのね……」
「……ごめんなさい」
ライバルの切ない事情を知らされて、ヒカリと亜璃沙は気まずそうに顔を逸らし、複雑な表情で押し黙る。
愛し合えない彼女の事は不憫だが、ずっと彼の側に居られる事が、羨ましくて悔しい。
そんな、しんみりとした空気の流れた居間に、疑問の声が響く。
「ホンマにそうやろうか?」
「えっ、何が?」
少女二人に追いかけられている間も、呑気に紅茶を飲んでいた小杜子が、急にそんな事を呟いたので、和樹は不思議に思って問い返す。
すると、彼女は驚くべき仮説を唱えた。
「いやな、影森君とメリーちゃん、向き合えると思うんやけど」
「「「はぁ!?」」」
大前提を覆すその発言に、和樹だけでなくヒカリ達まで驚愕の叫びを上げる。
「ちょ、何、どういう事!?」
「あ、いや、ウチの勝手な推測なんやけどな」
ヒカリに詰め寄られた小杜子は、愛しい人の顔を近くで見れて照れつつ、順を追って説明した。
「話の中で和樹君も言うとったやろ、『霊具か何かで妖力を封じたら、見ても大丈夫なんじゃないか』みたいな事」
「でも、それは――」
「メリーちゃんが消えてまうから駄目や、っていう話やったよな」
和樹の言おうとした台詞を先回りし、小杜子はさらに告げる。
「でも、火乃華さんはこうも言うとったんやろ? 『長い時を経た始祖だったら、大丈夫かもしれない』みたいな事」
「あっ……」
自分で語っていたくせに、全く気付かなかった盲点を指摘され、和樹は声を失った。
生まれたての妖怪で、霊子の塊=妖力そのものな存在だから、霊具で封じると消滅してしまうと言われていた電話口の少女。
けれどそれは、ある程度の時が経ち、肉の体を得たならば、少し窮屈な思いをさせる事になるが、姿を見たら殺されるという呪縛を封印して、向き合える可能性があると、火乃華は確かに示唆していた。
そして、三年もの間、和樹の作った美味しい料理を――人間と同じ物を摂取し続けた彼女は、既に肉体を獲得しているのではないか?
「でもそんな、都合のいい話が――」
「そういえば姉貴、妖力封じの首輪とか持ってたわよね」
「……蜘蛛男が着けてた、あれ」
「まさか、ストーカー幼女に使う前のテストとして、あのオカマに着けさせてた?」
「……有り得る」
狼狽する和樹を余所に、ヒカリと亜璃沙の目がどんどん険しくなっていく。
「いや、けど、火乃華姉さんはそんな事は一言も……」
「何時になるか分からんし、確証のある話でもないから、変に期待させたら悪いと思って黙ってたんと違うかな?」
従妹と実妹の殺気に気圧され、誤魔化すように吐いた言葉は、小杜子によってあっさり否定される。
あのとぼけた怠け者で、そのくせやる事はやってくれる従姉ならば、実に有り得る話だけに、和樹もまったく反論出来ない。
もう何も言えなくなった少年を前に、二人の少女は不気味に笑い出す。
「ふふふっ、小杜子ってば、良く気付いてくれたわね」
「……手遅れになる前で、本当に良かった」
「えぇ、流石はラスボスよね、奥の手を隠していたなんて」
「……これだから、ロリは侮れない」
ここで気付かなければ、油断しきっていた所を、あっさりと奪われていた事だろう。
愛する少年の心も、その貞操も。
「ちょ、ちょっと二人とも、落ち着いて、ね?」
にじり寄って来る二体の悪鬼を前に、和樹は冷や汗を掻いて後ずさる。
だが、そんな彼を決して逃しはしないと、ヒカリと亜璃沙は各々の凶器を構えた。
「安心しなさい、あの幼女をどうにかしようなんて思ってないから」
「……けれど、お兄ちゃんがロリに手を出すのを、見逃す気もない」
「だから――」
「……そうならないように――」
「「まずはその○○○を切り落とすっ!!」」
「何でそうなるのおおおぉぉぉ―――っ!」
人の股間を格好良く指差し、襲いかかってきた従姉と実妹から、和樹は悲鳴を上げて逃げ出した。
そうして、また始まったドタバタを眺めながら、小杜子はポツリと呟いた。
「けど、姿を見られたとしても、メリーちゃんが成長しないって問題点が残るんやけどな……」
真性のロリコンなら大喜びする話だが、和樹は散々否定しているし、本人も気に病んで、一線を超える事を拒むだろう。
だが、それについても解決策というか、根本的な疑問がある。それは――
「あの子って、ホンマにまだ『メリーさんの電話』なんか?」
小杜子の重大な呟きは、騒ぎ続ける和樹達の耳には届かない。
それでも、彼女は考え続けた。
「始祖の妖怪やったら、可能性はあると思うんやけど……」
人々の思念や噂話――こんな事があったら、こんな事があるのかも、そんな願望や不安を糧として生み出された原点の妖怪、始祖。
それは強い力を持つ反面、人々の意識が変わる事で、その存在まで変質してしまう。
だから、彼女を『メリーさんの電話』ではない、何か別のモノだと認識する人々が増え、その通りに変化したのならば、和樹と向き合う事も、成長する事も出来るようになるのではないだろうか。
「元から変な存在やしな……」
犯人ではない和樹に取り憑く事になったのも、真犯人を見逃した後もそれが継続しているのも、都市伝説の内容と食い違っていておかしいのだ。
これだけ変な事が起きていると、彼がその姿を見たら殺されてしまうという呪縛すら、本当に有効なのかどうかも疑わしい。
だから、いっそ普通の、人間のようになる可能も――
「いや、流石にそれはないわ」
有り得ないと首を振り、小杜子はもうそれについて考えるのを止めた。
惜しむらくは、彼女が十分な推理力を持っていながらも、それを裏付けるだけの情報を持っていなかった事だろう。
例えば、始祖の妖怪と存在的に近い、精霊と呼ばれるとある精神体が、白や黒にコロコロと変わったり、ツートンカラーに進化した事。
また、和樹達や妖怪仲間を除く、その他大勢の大場菜市に住む人々は、よく街中を散歩している金髪碧眼の少女を、妖怪などとは微塵も思っていない事。
最近、都市伝説『メリーさんの電話』の特徴である、『私、メリーさん』という名乗りを告げる回数が、微妙に減少してきている事。
そして、本当に全く成長しないのならば、靴が小さくなって買い替える必要などないという事を。
「それにしても、影森君はホンマに女ったらしやね~」
「和樹、大人しくニューハーフになりなさい!」
「……もしくは、封印したユニコーンの力で乙女化」
「嫌だぁーっ! 切り落とされるのも、あの駄馬を解放するのも願い下げだぁーっ!」
ニコニコと笑いながら、呑気に紅茶を飲む小杜子の前で、男の尊厳を賭けた追い駆けっこは延々と続くのであった。
◇
「疲れた……」
二十一時とまだ就寝には早い時間ながら、和樹は自室のベッドに倒れ込んだ。
一時間に及ぶ逃亡、さらに二時間も掛けた説得によって、何とか亜璃沙とヒカリを納得させて帰し、小杜子を駅まで見送り、夕食を作ったりあれこれ家事をこなし、いっぱいかいた汗をシャワーで流した所で、もう力尽きてしまったのだ。
明日の準備をする気にもなれず、和樹はうつ伏せのまま毛布も被らず、重い目蓋を閉じた。
それから何分か過ぎた頃、微睡みの世界に落ちて、意識が途切れる寸前だった和樹の耳に、扉の開く小さな音が響いてきた。
そして、軽い足音が彼の側に近寄ってくる。
疲れていた事と、敵意が感じられなかった事で、目蓋を開けようと思わなかった彼の体に、そっと毛布が掛けられる。
続いて、枕元に何かが置かれた。
綺麗にラッピングされた箱の中身が、丁度二千円の携帯電話ケースである事は、枕に顔を押し付けるように、うつ伏せで寝る彼には分かる筈もない。
そんな彼の後ろ髪を、細い指が撫で、顕わになった首筋に、何か小さくて柔らかいものがそっと触れた。
それが何だったのかも、やはり分かる筈もない彼の耳に、聞き慣れた可愛らしい声が響く。
「私、メリーさん。貴方の事が――」
普段より鮮明なその声が何と言ったのか、睡魔に呑み込まれた和樹の意識には届かなかった。
ただ、その日はとても優しい夢を見たような気がしたのだった。